第4章 キャバ嬢として


 夜の仕事を、それも女性として働いていることを決して他人に知られてはならない。だから、普段通りに仕事を終え、普段通りに定食屋に寄って夕食を摂り、マンションに戻る。
 シャワーを浴びて、人工乳房を装着する。境目がわからないようにファンデーションを塗り広げ、下着を身につけ、化粧を決めるとスカートスーツを着込んだ。ウイッグはロングのものだ。
 ネックレスを掛け、右の中指に指輪をする。イヤリングは耳たぶに挟む物だ。ピアスにしたいけれど、職場でピアスの穴を見とがめられたら大変だ。
 (あ、マニキュアをしておこう)
 真っ赤なマニキュアをして、パンストを脱いでペディキュアも施しておいた。
 (これでいい。出発だ)
 こっそりと部屋を出る。部屋から離れると階段で1階上ってエレベーターに乗った。カモフラージュのためだ。
 少し歩いてからタクシーを拾い、目的地を告げた。タクシーの運ちゃんがバックミラー越しにちらちらとわたしを見ている。まさか男だとは思っていないだろうと思うとおかしくなる。
 「こんばんは。今日から働かせていただく楓です。よろしく願いいたします」
 丁寧に頭を下げる。夜の女の社会は厳しいと聞いている。できるだけ目立たないようにするつもりだ。
 レンタルのドレスに着替える。これもあまり派手でない目立たないものだ。
 「最初はヘルプで付いて。同伴すると手当が付くよ」
 そう言われているけれど、同伴はまずない。女装を続けるためだけのお金が欲しいだけだから、ヘルプに徹するつもりだ。
 奥の席で待機していて、呼ばれたら席に着く。
 「楓です。よろしくお願いいたします」
 それ以上はしゃしゃり出ない。お客の会話に相づちを打つだけにしている。
 「楓ちゃんはおとなしいね。いくつなの?」
 「25です」
 23はあんまりだと思って25にした。それでも言い過ぎだなと思いながら。
 「あれ? もう少し若いのかと思ったのに」
 「うまいんですね。お世辞を言っても何も出ませんよ」
 笑顔を向けておいた。水割りを作ったり、タバコの吸い殻を片付ける手配をしたりしながら、馬鹿みたいにニコニコしている。これでお金になるのだから楽なものだ。
 午前1時、着替えて帰宅の途につく。少しアルコールが入っているけれど、酔っぱらってはいない。
 マンション近くでタクシーを降ろしてもらい、マンションまで歩く。街路灯がある場所を歩くので、襲われたりする危険はまずないだろう。
 この時刻、マンションを出入りする人間はあまりいない。だから、わたしだと見咎められることなく部屋に戻ることができる。もちろん、1階上の階で降りて階段で部屋に行くことは忘れない。
 すべての女装アイテムを外して化粧を落とし、マニキュアを落としてシャワーを浴び、ガフとショーツだけを身につけてパジャマを着てベッドに入る。ペディキュアは落とさなかった。靴下を履けば隠せるからだ。
 寝付くのは午前2時前だ。睡眠時間がこれまでよりも2時間ばかり短くなったけれど、あまり苦痛を感じない。やりたいことをやっているからだ。

 ひと月たって給料が出た。思ったより多くてビックリだ。いや、毎日働いているわけでもないのに、昼間の給料と同じくらいなのだ。昼間の仕事を辞めて、毎日夜の仕事をしようかと思うくらいだ。
 (昼の仕事はストレスは多いし、責任は重いし)
 けれど、そんなことをするわけにはいかない。夜の仕事はあくまでテンポラリーなものなのだ。

 週に1回は薫に電話を掛けている。子どもたちの様子を尋ねるためと言いながら、本当は薫の声を聞くためだが、それは表だっては告げない。
 何度もいうが、女装はストレス解消のため、キャバクラで働くのは、その資金調達のためだ。

 8月最後の金曜日、いつものように夜の仕事に出た。結構お客が多い。
 「楓ちゃん、ヘルプよ」
 ハイと返事をして席について思わず下を向いた。何と支社長がその席にいたのだ。支社長はもちろん、我が社の社員がこの店に来たことなど一度もなかった。だから安心していたのだけれど、まさか支社長がやってくるなど思ってもみなかったのだ。
 話を聞いていると、取引会社の接待でこの店に連れてこられたようだ。
 (支社長が下っ端の顔を覚えているはずもないし、この膨らんだ胸を見れば、自社の男性社員だとは思わないだろう)
 胸が零れそうなドレスを着ていてよかったと思った。それでも支社長にはあまり視線を向けないようにしていた。

 翌日、会社の前で支社長と鉢合わせになってしまった。
 「おはようございます」
 「うん、おはよう」
 挨拶を返してエレベーターに向かった支社長が何故か振り向いてわたしの方を見た。そうしてから首を傾げてからエレベーターに乗り込んでいった。
 (まさか、ばれた?)
 背筋に冷たいものが走った。しかし、絶対にばれるはずがないと思い直して、仕事に集中した。
 午前10時半、電話が入った。
 《もしもし、総務係長の戸倉さんですか?》
 女性の声だ。内線番号を見ると支社長の秘書からだ。
 「そうですが、何か?」
 《支社長がちょっと部屋に来て貰えないかとおっしゃってますので》
 女装がばれて首になる情景が浮かんだ。
 「す、すぐ伺います」
 震える手で受話器を置き、服装を整えてエレベーターに乗った。不安が押し寄せてくる。首になったら、妻子もろとも路頭に迷ってしまう。女装なんてしなければよかったと後悔していた。
 支社長室のドアをノックする。どうぞと電話と同じ女性の声がした。
 「失礼いたします。総務の戸倉です」
 「どうぞ。支社長がお待ちです」
 奥に通された。支社長は何かの書類をぺらぺらと捲っていた。
 「おう、すまないね、仕事中に」
 「いえ。どう言うご用件でしょうか?」
 心臓が早鐘のように打っている。
 「佐々木君、ちょっと外して貰っていいかな?」
 そう言われて秘書は頭を下げて部屋を出て行った。わたしはなんと言い訳しようかと考えを巡らせていた。
 「まあ、座りたまえ」
 ソファーを指さされ、いい訳を思いつかないままドキドキしながら座った。
 「戸倉君、きみ、女兄弟はいるかね?」
 「いえ、兄とふたり兄弟です」
 そんなことは履歴書を見れば一目瞭然だろう。しかし、見ていないのだろうと考え直した。
 「そうか。イヤ、君によく似た女性を見かけてね。妹でもいないかなと思ったんだよ」
 女装していたことがばれたんじゃないとわかって少し落ち着いてきた。
 「他人のそら似だと思いますけど」
 「そうか。それにしてもよく似ていたからてっきり妹さんかと思ってね」
 何と答えていいのかわからない。
 「要件というのはそれだけだ。時間を取らせてすまなかった」
 「あ、はい。では失礼いたします」
 首にならなくてよかったと胸を撫で下ろしながら支社長室を出た。

 仕事を終えて変身して夜の仕事に就く。いつもと変わらない夜だ。午後8時前、指名が入ったとの連絡で席に着いたのだけれど、わたしを指名したのは支社長だった。
 「ご指名ありがとうございます」
 「うむ。まあ、一杯頂こうか?」
 スコッチの水割りを作ってやるとわたしにも飲めと言う。
 「遠慮なくいただきます」
 ごく薄い水割りを作り、支社長と乾杯する。
 「楓と言ったね?」
 「はい」
 「独身かな?」
 「結婚していても独身だと答えなさいって言われてます」
 右中指にした指輪がわかるように答えた。
 「ははは。そうか。結婚しているのか。それは残念だな」
 「ここでは独身と言うことに」
 「では口説いてもいいのかな?」
 「もちろんですわ」
 「わたしは楓君に一目惚れでな。弊社にキミそっくりな社員がいるんだよ。で、彼がキミの身内ならば間を取り持って貰おうと思って尋ねたんだが、残念ながら違ったんだな。だから、こうして直接口説きにやって来たという訳なんだよ」
 そう言うことだったのかと合点した。
 「どうだね? わたしと付き合ってくれるわけにはいかないかな?」
 「わたし、お付き合いはしないことにしてるんです」
 男性との付き合いなんてとんでもないことだ。
 「いや、付き合うと言っても、想像しているようなことではないんだよ。ただ、食事をしたり、映画を一緒に見たりしてくれないかなと言うことなんだよ」
 それですむとは到底信じられない。
 「絶対にキミには手を出さないと約束するから。そうだ。明日、ランチをどうだ? 昼間なら安心だろう?」
 「ランチ・・・ですか?」
 「そう。ランチだけ付き合ってくれ」
 明日は仕事が休みの土曜日だ。昼間だし、大丈夫だろうと考えた。
 「わかりました。ランチだけというのなら、お付き合いいたします」
 「そうか。よかった。じゃあ、乾杯だ」
 支社長は、嬉しそうに水割りを飲んだ。

 支社長はラストまで粘り、わたしを離してくれなかった。まあわたしを指名する人間はいないので、何の問題もなかった。
 午前1時、支社長を送り出してから着替えてマンションに戻った。支社長にあとをつけられたりしていないか十分注意した上で。
 (あれ? 鍵を掛け忘れたかな?)
 鍵を回したのにドアが開かなかったのだ。鍵が開いていたから逆に回して締めてしまったと考えた。
 (確か鍵は締めたはずなのに)
 酔っていなければ、鍵が開いていた理由にすぐに思い当たるだろうけれど、わたしはそのままドアを開けて中に入っていた。
 「だれ? あなたなの?」
 女性の声、間違うはずのない薫の声が奥から届いてきた。ハイヒールを脱ごうと片足を上げたまま、わたしは固まった。
 視界に入った薫の表情はまるで夜叉だった。けれど、一瞬の間を置いてから薫が首を傾げた。
 「え? あなた・・なの?」
 見つめてくる薫に、頷くしかなかった。
 「どうしてそんな格好をしてるの? あ、鍵をしっかり掛けて、こっちへ来て」
 後ろ手に鍵を掛けて、脱ぎかけたハイヒールを脱いでこそこそと薫のそばに歩いていった。
 薫はどうしてそんな格好をしてるのともう一度尋ねた。
 「ストレス解消のためだよ」
 「ストレス解消のため?」
 「そう。会社で上司から怒鳴られ、下から突き上げられ、ストレスが溜まって病気になりそうだったんだよ」
 「この前来たときもその前来たときもそんな様子はなかったじゃないの」
 「薫に心配を掛けまいとして黙っていたんだよ」
 「そう。でも、女装がどうしてストレス解消になるの?」
 「女装すると今の自分じゃなくなるだろう? 何もかも忘れられるんだよ」
 「ああ、なるほどね。ふうん。ストレス解消のため。わかるような気がするわ。でも、よく似合ってるわ。本物の女性だと思っちゃった」
 薫はわたしを頭のてっぺんから足先まで何度も視線を動かした。
 「恥ずかしいよ」
 お茶お入れるわねと言い、薫はキッチンに立った。お茶を入れながら薫は続けた。
 「あなたを驚かせてやろうと思って連絡を入れずに来たら、部屋はもぬけの殻で、クローゼットを開くと女の服ばかり。タンスはほとんど女性の下着で占領されているし、化粧道具はずらりと並んでる。てっきり、あなたが女を引っ張り込んでいるって思ってたの」
 「そんなこと、するはずがないだろう?」
 「そうよね。あなたにそんな根性があたら、もっと出世してるわよね」
 ちょっとぐさっと来た。
 「でもほっとしたわ。あなたが浮気してなくて。ハイ、お茶」
 濃いお茶の入った湯飲みがわたしの前に置かれる。
 「ありがとう。俺、女装はもう止めるよ」
 「あら? どうして?」
 「女の格好をする夫なんてイヤだろう?」
 「子どもたちと一緒にいたらイヤだけど、別々に暮らしてるでしょう? 子どもたちの目に触れなければいいわよ。そうすることでストレスが解消されて仕事がはかどるんでしょう?」
 「まあね。・・じゃあ、女装を続けてもいいんだね?」
 「続けてもいいけど、こんなに遅くまで、何をやってたの? まさか男同士で、なんてことはないでしょうね?」
 「ありえないよ。ただ女装してるだけだよ。性的対象は女、薫だけだよ」
 「安心したわ。で? 遅くなった理由は?」
 嘘をついても仕方がないので正直に話すことにした。それが夫婦円満の秘訣だ。
 「女はいろいろとお金が掛かるだろう? 化粧品とか衣装とか」
 薫はうんうんと頷く。
 「ふふふ。あなたが女装したことでわたしには大きなメリットがあるわ」
 わたしはその言葉の理由がわからず首をかしげた。
 「あなた。いつもわたしの化粧品が高いって言ってたでしょう?」
 「ああ、そういうこと。その点については確かによく理解できたよ」
 「で? 化粧品や衣装にお金が掛かることを遅くなったことの関連はどうなの?」
 「だから、化粧品や服を手に入れる費用を捻出するために、・・・キャバクラで働いているんだよ」
 「キャバクラで!? あなた、本当なの?」
 薫は目を丸くして驚く。
 「ああ、店が午前1時までだから、こんな時間になってしまうんだよ」
 「へえ、あなたがキャバクラ嬢ねえ。ホントに男に誘われたりしないの?」
 「女として働いているから誘われることはあるよ。でも、丁寧に断っているよ。そんなことをしたら、男だとばれて働けなくなるだろう?」
 「それもそうね。よくわかったわ。もっと早くに女装してるって言ってくれたらよかったのに。いない女に嫉妬して損をしたわ」
 「そう言うわけにも・・・」
 「まあ、そうでしょうね。もう遅いから寝ましょう」
 人工乳房を着けたまま、ガフを着けたまま薫と寝るわけにはいかないので、すべてを取り去ってシャワーを浴びてベッドに入った。いつもならわたしに挑んでくる薫が既に眠っていた。
 女装を許すと言ったけれど、本当はイヤだったんだろうと感じた。

 目覚めると、味噌汁の香りが漂っていた。
 「おはよう。あなた」
 「掃除も洗濯もしなくていいみたいだから、わたし、もう帰るから」
 そう言い残してマンションを出て行った。薫がこのマンションに来てセックスしないで帰ったことなど一度もなかった。やっぱり夫の女装はショックなんだと項垂れていた。
 薫にとってわたしの女装はショックだろうけれど、わたしは女装なしで暮らしていく自信はなくなっていた。
 薫の作ってくれた朝食を取ると、すぐに人工乳房を装着し、ガフにショーツ、パンストを履いて、一番お気に入りの若草色のワンピースを着た。
 化粧をばっちり決めて、ウイッグの髪を梳き、アクセサリーを付けて支社長との約束の場所へと向かった。

 約束の時刻より10分ほど早く着いたのに、支社長は既に店に来ていてわたしを待っていた。
 「おお、夜の楓君も綺麗だが、昼の楓君も綺麗だ」
 恥ずかしげもなく言う。
 「煽てても何も出ませんよ」
 支社長に笑顔を向ける。
 「ははは。楓君のその笑顔がいい。最高の笑顔だ。その笑顔に惚れたんだよ。さあ、ランチといこうか」
 ベルを押して、やってきた店員にすぐに料理を運んでくれと頼んだ。ランチと言うよりもディナーと言った方がいいような料理がテーブルの上に並んだ。
 「さあ、食べてくれ。ここの料理は美味いぞ」
 支社長は箸を持つ。アルコール類は注文していないようだ。わたしも箸を持ち、女らしく料理を口に運んでいった。
 ほっぺたが落ちそうとはこのことだ。ガツガツ食べたいところだけど、女を演じている以上そうはできない。
 「もういいのか? もっと食べなさい」
 「もうお腹いっぱいです」
 料理が半分以上残った。おいしい料理が勿体ないなと思う。
 「また付き合ってくれるかな?」
 本当にランチで終わりのようだ。誘われたときのいい訳をあれこれと考えていたので、拍子抜けしながら、支社長の人柄にちょっと惚れ直した。
 「ハイ、喜んで」
 「今度は中華にしよう。いい店を知ってるんだ」
 美味しいものを食べさせてくれるだけならずっと付き合ってもいいなと思っていた。



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