第12章 わたしは香澄になった


 わたしの身体が宙に浮く直前、わたしは犀川の信じられない叫びを聞いた。
 「香澄! 愛していないなんて嘘だ! 嘘だったんだ!」
 わたしの空耳よね?
 それが犀川の口から出た言葉だとしても、それは自分のせいでわたしが死ぬことを阻止するために違いない。きっとそうだ。
 激しい衝撃がわたしの身体を粉々にする。
 犀川が駆け寄ってくる姿がボンヤリと見えた。
 「香澄! 香澄!! 死ぬな! 愛してるんだ!」
 もういいわよ。そんな嘘っぱち。
 犀川の抱きしめられながら、わたしの意識は途切れた。



 わたしが香澄を見初めたのは、大学時代の友人が開いた絵画展だった。もちろんわたしは絵画などに興味はなく、義理で出かけて行ったに過ぎない。その絵画展で受付をしていたのが友人の姪であった香澄だった。わたしは香澄のその清楚さ、その笑顔に一目惚れした。
 わたしはすぐに友人を通して交際を申し込んだ。
 「無理を言って席を設けたが、期待しない方がいいぞ」
 友人はそう念を押した。わたしのご面相からすれば、とても相手にしてはくれないだろうと言うことだ。そんなことはわかっていた。けれど、どうしても香澄を手に入れたかった。どうしても結婚したかった。
 最高級のフランス料理店へ招待し、友人から仕入れていた香澄が興味を持っていることを話題に迫った。
 香澄は優しい女で、イヤな顔もせずにわたしの話をジッと聞いてくれた。わたしはますます香澄に惚れ込んだ。
 ディナーが終わり、コーヒーが出た。コーヒーを飲み終えると香澄を送っていくことになっていた。
 ただ、送っていけば、それで最後になることは予想できた。もう二度と会ってはくれないだろうと。
 そこに千載一遇のチャンスが訪れた。香澄がトイレに立ったのだ。仕事の緊張で不眠症気味だったわたしがいつも携帯している睡眠薬を香澄のコーヒーに混じた。そして、香澄が戻ってくるのを待った。香澄がコーヒーを飲むかどうかが運命の分かれ道だった。トイレから戻ってきた香澄はコーヒーを飲んだ。苦いコーヒーだったから睡眠薬の混入には気づいていないようだった。
 自宅へ送っていく途中で眠り込んだ香澄をわたしの自宅へ連れ込み、犯した。医者のわたしがレイプしたのだ。恥ずべきことだ。
 訴えられ、医師としての立場を失うかもしれないことは重々わかっていた。けれど、そうしてまで香澄を手に入れたかったのだ。
 香澄はわたしを訴えることせず、土下座して謝るわたしに結婚して欲しいと言った。香澄は処女だった。初めての男と結婚するという考えの古風な女だった。
 そんなことで結婚したわたしたちだったけれど、香澄はあんなことがなかったかのようにわたしに尽くしてくれ、愛してくれた。

 携帯の目覚ましが鳴っている。手探りでスイッチを押して止め起き上がる。時刻は午前6時半だ。
 キッチンの方から物音が聞こえる。香澄はわたしより1時間あまり先に起き出して朝食の準備をしたり、洗濯機を回したりしているのだ。
 「おはよう、あなた」
 リビングに出て行くと、香澄が笑顔を向けてくる。その笑顔に心が癒され、今日も一日頑張るぞという気持ちになる。
 歯を磨き、洗顔して着替えてダイニングに行くと飯に味噌汁が並べられた。独身時代はコーヒー一杯か何も食べずに出かけたものだが、香澄はそれでは健康にいけないと毎朝朝食を作る。
 「お医者様がまず手本を見せないと」
 そう言われれば、食べないわけにはいかない。
 「ハイ、お弁当」
 多忙で昼食をいつ取れるかわからないので、いつでも食べられるようにこうして弁当も作ってくれる。まったくできた妻だ。
 仕事を終えてマンションに戻ると、香澄は必ずわたしを待っていて一緒に食事をする。遅い夕食は太る原因になるからと、カロリーは控えめだ。
 ひと休みしてから入浴する。そして、わたしと香澄のどちらが言うでもなくベッドルームへ移動する。
 キスしながら香澄の身体を隅々まで愛撫する。香澄はそれだけで行ってしまうと恥ずかしげに告白したことがある。
 いつの間にか香澄はわたしのペニスを咥えていた。香澄のフェラチオは絶品だ。男のツボを押さえている。
 香澄の口の中にぶちまけても飲んでくれることはわかっているけれど、二度続けてできないわたしはぐっと我慢する。
 「香澄、そろそろ」
 名残惜しそうに這い上がってくる。
 「お腹の子どもに触るといけないから横向きで」
 香澄は現在妊娠6ヶ月目だ。どんな子どもができるか楽しみだが、わたしに似ない方がいいと思う。特に女の子だった場合。
 「わかった」
 横向きに寝た香澄の濡れそぼった膣にバックから挿入する。香澄は小さく呻く。わたしは香澄の様子を窺いながら、ゆっくりと抽送を始めた。
 体位は変えない。そのままフィニッシュに至った。香澄は身体をがたがた震わせ、あなた、愛していると呟いた。わたしも香澄を愛している。

 香澄は出産の日を迎えた。初めての出産で少し気弱になっているようだ。わたしは仕事を休んで、ずっと香澄の手を握っていた。
 そしてその瞬間が訪れた。香澄の膣が大きく開き、子どもの頭部が出てくる。助産師の励ましに香澄は懸命に息み、ついに子どもを産み落とした。元気で可愛らしい女の子だ。
 感動して涙が溢れた。
 「香澄、よくやった。よく頑張った」
 「可愛い子。わたしが産んだのね」
 生まれたばかりの子どもを抱いて香澄は涙を流している。犀川家の子どもはこれでふたりになった。香澄が産んだ子どもと、香澄そっくりに変身した前嶋が産んだ子どもだ。
 今日長女を産み落とした香澄は前嶋だ。困難と考えられていた経腟での出産をやり遂げたのだ。

 あのとき、5階建ての朝永病院の屋上から飛び降りた前嶋だったけれど、真下は外来棟で2階まで建物があったのだ。しかもそこは香澄が死んだときのようなコンクリートではなく、屋上庭園となっていて芝生が敷き詰められていた。さらにツツジの植え込みがあって、その上に落ちた前嶋は大腿骨を骨折しただけで命を取り留めた。応急処置を施した後、わたしは前嶋を犀川病院へと移送して治療を続けたのだ。
 目覚めた前嶋は、わたしがいくら愛していると伝えても、信じようとしなかった。それはそうだろう。あれだけのことをしたのだから。
 けれどわたしは前嶋を諦めきれなかった。わたしは伯父に依頼して、前嶋の洗脳を行ってもらった。伯父はその分野では凄腕なのだ。
 クスリと催眠術で前嶋の前嶋としての記憶を消し去り、香澄の記憶をすり込んでいった。当然のことながら、前嶋との不倫はなかったものにした。
 さらにわたしと香澄の結婚は、レイプしたことを隠して、お互いに好きになってと言うことにした。
 わたしは何とずるい男だろう。けれど、わたしは香澄となった前嶋をどうしてもわたしの妻にしたかった。愛していたからだ。

 わたしが前嶋を拉致・監禁したのは、もちろん香澄を失った復讐のためだった。ところが、前嶋が女性ホルモンの効果で女性化していったとき、胸のときめきを押さえられなかった。それは、初めて香澄に出会ったとき以上のものだった。
 わたしはなんとか前嶋を手に入れようと考えた。それは思っても見ない形で実現した。前嶋の方がわたしに迫ってきたのだ。わたしは自分の本心を隠し、前嶋とのセックスを楽しんだ。
 これではいけないと思い直して、前嶋を八神の手で陵辱させたのだが、どうしても前嶋を忘れられずに八神に手を引かせて、もう一度わたしの手元に置いた。
 前嶋もわたしのことを愛してくれるようになったことを感じた。けれど、前嶋が愛しているのは本物のわたしではない。どもりで低脳を装った穣の方だ。そのことはわかっていたけれど、わたしは前嶋にのめり込んでいった。そして、結婚を餌に性転換を承諾させた。
 もちろん、男である前嶋との結婚は通常ならば躊躇われたであろう。けれどわたしには男であっても結婚を決意できる手段があった。それは子宮の移植だ。本田医師がいなかったら、この結婚はなかっただろう。
 移植される子宮は誰のものでもいいというわけにはいかない。移植される子宮は香澄のものだ。
 香澄が死んだとき、ほとんどすべての臓器を取り出して移植に当てた。そのいくつかは、誰かの体内で息づいているだろう。わたしにとって幸いというべきか、子宮だけが残っていた。その香澄の子宮を前嶋に移植したのだ。
 香澄にわたしの子どもを産んでもらいたかったのにそれが果たせなかったから、代わりに前嶋にその役目を負ってもらおうというわけだ。
 前嶋に移植された香澄の子宮は、見事に前嶋の身体に生着し、機能を復活させた。本田医師様々だ。
 わたしの理想とする容姿を持った完璧な女性となった前嶋と結婚するつもりだった。ところが、予定が変わった。わたしが前嶋に惚れ込む前に流した動画を前嶋が発見したのだ。このままでは生きていけないと。
 わたしが前嶋であってもそう考えただろう。
 (どうすればいい?)
 頭をフル回転させ、顔を変えればいいと前嶋に提案した。前嶋は自分の顔でなければいいと考えただろう。けれど、わたしの考えは違っていた。前嶋の顔のままが本当は一番いい。それがイヤだというのなら、残された顔は香澄の顔しかないのだ。
 香澄の顔への整形くらいはわたしにもできる。ただ、わたしの病院でやるわけにはいかなかった。だから、本田医師に依頼した。
 本田医師の腕は、もはや神の領域だ。前嶋の顔を1ミリも違わず香澄の顔に変えてしまった。
 そこまではよかった。本田医師がいらぬことを言ってしまった。変えた顔がわたしの死んだ妻の顔だと。わたしの。
 部屋の外でそれを聞いていたわたしは、すべてがばれてしまったと考え、病室に入っていった。ところが、それがどうやら間違いだったと気づいたのは、前嶋と話してからだ。しかし、もう取り返しは付かない。
 経緯を前嶋に話すことにしたのだが、わたしの医師としての自尊心が邪魔をして、前嶋に愛していることを告げることができなかった。わたしに裏切られたことを知った前嶋は、病院の屋上から飛び降りてしまったのだ。

 伯父の洗脳術は、過去何度も行われてきたが、わたしは知らないことにしている。はっきり言って、この洗脳術はいいことに使われたことがないからだ。
 八神のような男に依頼されて、ノンケの男を性同一性障害だと思いこませて、ニューハーフに仕立て上げたり、性転換手術を施したりしていた。もちろんそれは、金儲けのためだ。手術が増えれば病院が儲かると言うことだ。
 「なに? 奴の記憶を消して、香澄さんだと思いこませる? 穣、まさか、奴と結婚するつもりなのか?」
 わたしの意図を悟った伯父は眉を顰めながらそう言った。わたしはそうするつもりだと答えた。
 「バカなことを。確かに奴は完璧な女になったが、男であることには違いはないのだぞ。止めとけ」
 「前嶋に移植した子宮、アレは誰のものだと思う?」
 この時点で伯父は子宮が香澄のものとは知らなかった。
 「それがどうかしたのか?」
 「あれは香澄の子宮だ。つまり前嶋は香澄になったと言うことだ。あとは精神の問題だ。何とか前嶋を香澄にしてくれ」
 土下座して頼むと、伯父はそう言うことなら仕方がないなと答えて、前嶋の洗脳を実施してくれたのだ。
 前嶋は、もはや香澄だ。香澄となってわたしの子どもを産んでくれた。わたしの愛する香澄になってくれた。
 わたしは死ぬまで香澄を愛する。それが前嶋への贖罪だ。



 目覚めてそこが天国でも地獄でもないことがすぐにわかった。
 (5階から飛び降りて助かるなんて、運がいいのか悪いのか・・・)
 足が動かなかった。ギブスが巻かれているのに気づき、骨折したんだと悟った。他には傷はないようだ。
 (犀川の奴、わたしをどうするつもりなんだ? 自分の子どもを産んで欲しいなんて言ったけど、本当は最初に言ってたみたいに男たちによってたかって犯させるつもりだわ)
 それ以外にあり得ないと思った。犀川は男は愛せないとはっきり言った。
 (イヤ、それは嘘だとも言った。死なないでくれと。どっちが本心だ?)
 いずれにしろ、もはやわたしは犀川を愛せないと感じた。この状況で愛せという方が無理だ。愛していたのは穣であって、犀川じゃない。

 意識が戻ってどれくらいたっただろうか? 病室の扉が開き、看護師が入ってきた。義務的にわたしの脈と熱を測って出て行った。その直後、犀川がやってきた。
 「死ぬかと思ったよ。生きていてよかった」
 抱きしめようとする犀川をわたしは突き放した。
 「今更何が生きててよかったよよ!」
 「香澄にあの時言った言葉はみんな嘘だ。わたしは香澄を愛してるんだ」
 「あなたの言うことなんて、これっぽっちも信じられないわ。出て行って!」
 「ホントに香澄を愛してるんだ」
 「香澄、香澄って呼ばないで。わたしは香澄じゃない!」
 枕を投げつけると、悲しそうな顔をしてわたしを見てから病室を出て行った。

 数日後、犀川の伯父である犀川院長が病室へやってきた。
 「ほう、香澄さんそっくりというか、香澄さんそのものだな?」
 わたしの顔をまじまじと見て呟いた。
 「あなたも犀川とグルになってわたしをこんなめに」
 「おまえが香澄と浮気なんぞするからだ! さてと」
 犀川院長は、ポケットから注射器を取り出し、わたしの腕につながる点滴のルートに針を刺して注入した。
 ギブスで動きの取れないわたしは、されるがままだ。
 「いったい、何の注射なの?」
 犀川院長はわたしの質問には答えず、眠くなるからなと告げただけだった。
 「これ以上わたしに何をするつもりなの? まさか、わたしを殺すつもりじゃないでしょうね?」
 「まさか。あ、いや、殺すことになるかもしれないな」
 驚くまもなく意識が薄れていった。犀川院長が何かを話している。その言葉が聞き取れない。やがてわたしは完全に眠り込んでいた。

 そんなことが数日続いた。
 「キミの名前は?」
 「名前・・・・」
 自分の名前が思い出せなかった。
 「仕事は何をしていた?」
 「仕事? わからない」
 「生まれはどこだ?」
 「・・・わからない。わからない。わからない」
 何も思い出せなくなってわたしはパニックに陥った。
 「大丈夫。すぐに思い出せるからね。さあ、眠って」
 すぐに眠りに吸い込まれていった。

 心地よい目覚めだった。頭のもやもやが消えていた。白衣を着た医者が病室に入ってきた。
 (この人は、犀川院長。夫の伯父だわ)
 はっきりと頭に浮かんだ。
 「おはよう。自分の名前は思い出せたかな?」
 「わたしの名前ですか? わたしは香澄です」
 「結婚していたんだったね?」
 「ええ。院長先生の甥に当たる穣さんと」
 「思い出したね? 香澄さんの誕生日はいつだったかな?」
 「昭和57年11月5日です」
 「そうか。穣の誕生日は?」
 「昭和52年5月8日です」
 「穣とはどこで知り合ったのかな?」
 「お見合いです。お義父様が展覧会の受付をしていたわたしを見初めて、是非息子の嫁にと見合いの席を設けていただいたんです。お見合いの席で穣さんのことが気に入って結婚の承諾をしたんです」
 「穣は決していい男とはいえないが、どこが気に入ったのかな?」
 「男の人は顔じゃないです。とっても優しくて、わたしを大切にしてくれそうだったからです」
 今日は質問にすらすらと答えられた。それでもいくつかの質問に答えられなかった。ところが、翌日には答えが頭に浮かんだ。
 ギプスが外れて、リハビリが終わる頃には、わたしはすっかり記憶を取り戻していた。

 わたしと穣さん、そして長男の3人の生活が再開された。とても幸せだった。毎日毎日穣さんに抱かれ、わたしは第2子を妊娠し、可愛らしい女の子を出産した。

 そんなある日のこと、義母の妹が妙なことを口にした。
 「香澄さんは、穣の前の奥さんにそっくりよね。名前も同じだから、知らない人が見たら、生き返ったって思うわね」
 訳がわからず尋ねた。
 「そんなにそっくりですか?」
 「ええ。背丈があなたの方が少し高いけどね」
 それとなく尋ねてみると、穣さんには自殺した香澄という前妻がいて、生まれたばかりの息子のために香澄そっくりのわたしと再婚したというのだ。
 調べてみると、わたしの記憶は自殺した前妻のものだった。
 (するとわたしはやはり男なの?)
 わたしには、以前は男で監禁されて無理矢理女に性転換されたと言う、理解不能の記憶があった。
 妊娠・出産したのだから、わたしは純女で、そんなことはあり得ない、妄想だと長い間考えていた。
 しかし、戸籍を辿っていき、わたしは前嶋勝治という男で、性同一性障害の診断の元、性転換手術を受けて女性に生まれ変わっていたことがわかった。けれど、わかったことはそこまでだ。
 わたしが前嶋勝治だったという記憶はまったくないけれど、記憶を取り戻そうとするとわたしたちの結婚生活が破綻するおそれがあると漠然と感じた。
 わたしを前妻に仕立て上げたのには大きな秘密があるけれど、黙して語らないことの方が今のこの幸せを維持できると考えた。
 穣さんは、誰もが認める醜男だけど、これ以上ないというくらい優しい。わたしを一生大切にして愛してくれると思う。それに、年収5000万は魅力的だ。妙な詮索をしてこの幸せを失いたくなかった。
 わたしは香澄。他の誰でもない。妻として、母として、女として生きる。




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