第1章 拉致・監禁されて


 風がわたしの長い髪をなびかせる。
 スカートの裾がまくれあがっている。でも、もうそんなことはどうでもいい。
 どうしてこんなことになってしまったんだろう?
 どうしてあのとき・・・・。
 誰かが叫ぶ声がする。夫の声だ。止めろと叫んでいる。
 でももうわたしには残された道がない。
 さよなら、あなた。
 わたしは幸せでした。
 あなたを裏切ってごめんなさい。
 風がわたしの身体を押す。
 わたしはゆっくりと身体を前に倒していく。
 わたしの身体が宙に浮いた。
 まるで空を飛んでいるようだ。
 グシャッと頭蓋骨がつぶれる音がした。
 意識がなくなる前、駆け寄ってくる夫の姿が見えた。
 さようなら、あなた。



 電車を降りてバスに乗り換える。この時間、酔っていないのはわたしだけのように思える。みんな顔を赤くし、ウトウトしていた。
 1年がかりで作り上げたプロジェクトが危うくパアになるところだった。
 (あいつが対案を出してこなければ、今頃は祝杯を挙げて悠々としていた頃だ)
 ここ1週間、徹夜徹夜でプロジェクトの修正を行った結果、ようやくわたしのプロジェクトの方が採用されることになったのだ。
 (明日、書類を提出すれば終わりだ。何と無駄足を踏まされたことか)
 ぶつぶつ言いながらバスを降り、書類の入った鞄を抱えてマンションに向かって歩く。バス通りからマンションへの近道に入った。
 この道はバス通りから10メートルほど入ったところから50メートルばかりの間に街灯がなく、レイプ事件が二度ほどあったことから女性が通ることはあまりない。
 (まさか男を襲うやつなんかいないよな)
 そう思いながらもちょっと心配しながら歩いていた。暗がりの中程まで来たとき、後ろからパタパタと人が走ってくる音に気づき、振り返った。大柄な男が走り寄ってきた。暗がりで男の顔はまったくわからない。
 ぱっと明るいライトが当てられ、目が眩んだ。
 「何をする!」
 叫んだ瞬間、肩口にショックがあって気を失った。

 気がつくと誰かに抱えられて車の後部座席に押し込まれるところだった。
 「何をするんだ!」
 叫んでみたけれど、身体の方はまだナマケモノのように動きが緩慢だった。男がわたしを押さえつける。
 「痛っ!!」
 肩に針が突き立てたれ、同じ部位に膨張する痛みを感じた。何かを注射されたのだ。押さえつける男の力が弱まると同時にわたしは再び意識を失った。

 薄暗い部屋の中で目が覚めた。首が圧迫されていた。圧迫の原因は分厚い皮だ。分厚い皮が首に巻かれていて、壁に固定された太い鎖と連結するように鍵が掛けられていた。
 さらに手錠、足錠も掛けられていた。着ていたスーツは脱がされていて、Tシャツとトランクスだけにされていた。
 目が慣れてくると部屋の様子がわかってきた。ほんの6畳あまりの部屋だ。天井も壁も床もコンクリート造り、窓はなく、天井に裸電球がひとつ点るばかりだ。
 鎖を固定している壁とは反対側の壁に鋼鉄製の扉があるが、小窓も何もなく、ただドアノブがひとつあるだけだ。
 鎖を両手で握って思い切り引っ張ってみる。びくともしない。手錠や足錠もオモチャではなく、鍵がなければ決して開けられない代物だ。
 「ここはどこだ! わたしをこんな目に遭わせるのは誰だ!」
 叫んでみたけれど、何の音沙汰もない。
 「誰か! 誰かいないのか!」
 いくら叫んでもまったく応答はなかった。
 「くそ!」
 床に座り込む。コンクリートの冷たさで身震いがした。
 (誰がこんなことを?)
 吉良しかないと思った。わたしの同期で、今回のプロジェクトに対案を出してきた男だ。明日(いや、もう今日かもしれないが)書類の提出を阻むためにこんなことをしたに違いない。
 「吉良! 吉良!! こんなことをするのはおまえだろう! こんなことをしても無駄だ! わたしのアイデアが採用されることはもはや決定済みだ。おまえがどんなにあがこうと、決定は覆せないんだ。諦めてわたしを解放しろ!」
 わたしの声は虚しく響くだけだ。薄暗さと静けさと寒さでわたしは次第に気力を失い、床に座って項垂れていた。
 項垂れながらわたしは考える。目覚めたとき、眠気はまったくと言っていいほどなかった。注射されてかなり長い時間眠っていたのだろう。すると、今は書類の提出の日だと言うことだ。書類提出は午前10時になっていた。
 (今は何時だろう?)
 わたしは目覚ましなしに毎日午前6時に目が覚める。長年の習慣で身体がそうなってしまったのだ。注射の影響がないとすれば、同じく6時に目が覚めたと考えられる。
 (目覚めてから1時間くらいたったかな?)
 そうだとすれば、今は午前7時前後。まだ間に合うはずだ。
 「吉良! 今回のプロジェクトはわたしとおまえの共同制作と言うことにしよう。それならいいだろう? だから、ここから出してくれ!」
 反応はない。考えた末、わたしは最終提案をした。
 「わかった、わかった。おまえが作ったことにしてやる。わたしは手を引く。それでどうだ?」
 部屋は恐ろしく静まりかえったままだ。提出時間が過ぎるのを待っているに違いないと確信した。
 悔しさに歯ぎしりしながら気づいた。
 (そうか。奴はここにはいないんだ。わたしが作った書類を持って、会社に行っているに違いない。そうなると、夕方まで待つしかないか)
 もう一度鎖を引っ張ってみた。虚しい努力だった。壁により掛かって、時間がたつのを待った。

 いつの間にかウトウトしていた。どれくらい時間がたったのかまったくわからない。
 「おおい! 誰かいないのか!」
 叫んでも虚しく響くだけだ。
 「吉良! もうおまえの勝ちだろう! もう解放してくれ!」
 いくら叫んでも誰も答えてくれない。
 (はあ、腹が減ったな。それに喉も渇いた)
 それと同時に尿意を覚えた。
 「おおい! トイレに行かせてくれ! 行かせてくれないとここでやってしまうぞ!」
 やはり返事はない。もしかしたら、声が届く場所に誰もいないのかもしれないと思った。それしかないと考えた。
 「小便するぞ。おまえの責任だからな」
 ドアの方は誰かが見ているのではないかと考え、鎖が固定された壁の左端に向かって小便しようとした。ところが何故か出ないのだ。見られているかもしれないという緊張のせいかもしれない。
 それでも何とか小便した。アンモニアのイヤな臭いが部屋に充満していった。

 空腹はもはや限界を越え、何も感じなくなっていた。ただ、喉の渇きだけはどうしようもない。口の中が粘り付き、喉の奥がひりひりと痛んだ。
 「おおい、水をくれ。水を・・・」
 返事があろうはずがない。この時点でもはやわたしの叫びに応じる人間はいないのだろうと考えていた。
 吉良はわたしをここに放置し、餓死させるつもりなのだ。わたしを解放して、警察に訴えられる危険を冒すはずがないのだ。
 死の恐怖に怯えながら、床に丸まって眠った。

 目が覚めた。何時間たったのかわからない。尿意に起き上がり、壁に向かって小便しようとして、小便も水分だと気づいた。
 両手で小便を受け、口にした。少ししょっぱいだけで、アンモニアのイヤな臭いはなかった。少しだけ渇きが和らいだ。
 何度か自分の小便を飲んだ。やがてその小便も徐々に少なくなっていった。もはや限界に近づいていた。
 人は水なしでは1週間ほどしか生きられないと聞いたことがある。死が目前にあった。
 「ああ、神様。神様がいるのなら、わたしを助けてください。お願いです」
 涙ももはや出なかった。
 ガチャリ
 ドアが開いた。わたしを拉致した男(体格から恐らく間違いないだろう)がノソリと入ってきた。
 「お願いだ。水を。水をくれ」
 膝を突いて嘆願すると、男はわたしに向かって右手を差し出した。その手のひらに数個の錠剤が載っていた。
 「どうするんだ? そのクスリを飲めと言うのか?」
 男は頷く。
 「まさか、毒じゃないだろうな?」
 男は首を横に振り、左手に持ったカップを見せた。カップの中に水がたっぷりと入っていた。
 「水をくれるのか?」
 そう尋ねると、カップを引き、クスリをわたしの方へ差し出した。
 「そのクスリを飲んだら水をくれるんだな?」
 男は頷く。わたしはクスリを受け取り、口の中に入れた。毒ではないと答えたけれど、毒だったら、命はない。けれど、それよりも渇きの方が勝っていた。わたしは男からカップを受け取り飢えたガキのように飲んだ。イヤ、実際、飢えたガキだった。
 男はわたしからカップを奪い取ると、ひと言も発することなく部屋を出て行った。急に水を飲んだせいか、クスリのせいか、少し吐き気がした。

 どれくらいたったかわからないけれど、男が再びやってきて、同じようにクスリを差しだした。わたしはクスリを口に入れ、カップの水を飲み干した。
 「これは何のクスリだ? 栄養剤じゃないみたいだけど?」
 男はやはり黙したままで部屋を出て行った。

 三度目に男がやってきたとき、わたしは訴えた。
 「この部屋にはトイレがない。トイレに行かせてくれ」
 すると男は、わたしにクスリを飲ませたあと、いったん部屋を出て行ってからポータブルトイレを持ってきた。部屋の隅に放尿するよりはましだと考え、男に礼を言っておいた。

 ウトウトしていたからはっきりしないけれど、かなり時間がたってから男がやってきた。やはりクスリを差しだし、わたしがそのクスリを口に入れるとカップに入った水を差しだした。
 「これはいったい何のクスリなんだ?」
 男は答えることはなかった。もしかして言葉を話せないのかもしれないと思った。この男を利用するものにとってしゃべれないことはいろいろと都合がいいだろう。
 もしかしてヒ素みたいな毒物で、わたしをゆっくりと死に至らしめるものかもしれないと考えた。
 けれど、ヒ素ならば骨に沈着して、死体を検査をしたらわかるはずだ。同じような毒物も同様だろう。
 頭のいい吉良ならそんなことはしないだろうと考え直した。
 (ならば何のクスリなんだ?)
 想像が付かない。

 薄明かりだけで物音ひとつしない場所に監禁されているから時間の経過がまったくわからない。
 ただ、男が数時間間隔で3回来ると次はかなり時間が空くことがわかってきた。つまり、それが1日のサイクルだと言うことだと考えた。
 (すると男がクスリを持って来始めて今日で5日目だということだな)
 それ以前の渇き切った日々は、わたしの感覚では同じく5日間だ。ただ、時計のない場所に閉じ込められていた場合、考えていたより時間がたっていないという実験があったように記憶している。一日少なく見積もって4日間。合計9日が経過しているだろうと考えた。
 (水だけでよく持っているものだ)
 クスリは栄養剤なのかもしれないと考え始めていた。けれど、大昔の宇宙旅行の映画じゃあるまいし、錠剤だけで生きていくための栄養を賄えるとは思えない。それが証拠にわたしの身体は相当痩せてきていた。
 (10キロは痩せているかもしれないな)
 細くなった腕を撫でながら思った。

 わたしが考える監禁10日目の朝、わたしは男に訴えた。
 「腹が減って死にそうだ。何か食わせてくれ」
 男は黙ってクスリを差しだした。わたしはそのクスリをカップの水で飲み下した。
 「なあ、お願いだ。何か食わせてくれ。キミの独断でできないというのなら、キミの主人に聞いてみてくれ」
 男は頷き、部屋を出て行った。

 数時間後やってきた男の手にはクスリと水の入ったカップだけだった。ガッカリして力が抜けた。
 「何も食わせて貰えないのか? このまま餓死しろと言うのか?」
 男は肩を竦めて出て行った。男が吉良に伝えていないのか、吉良が迷っているのかどちらかだろう。

 男はクスリしか持ってこない。諦めかけた監禁12日目の朝、男がトレーにプラスティック製の椀を載せてやってきた。他にいつものクスリとカップに入った水も載っていた。
 男はそのトレーを入り口近くに置くと、ポケットから注射器を取り出し、わたしに腕まくりをするようにジェスチャーで命じた。
 「その注射を受けたら、それを食わせてくれると言うのだな?」
 男は頷き、腕まくりをするようにわたしに促した。
 「何の注射か聞いても答えてはくれないな?」
 男は黙ってわたしの腕をアルコールで消毒すると針を突き立てた。子どもの時から注射は嫌いだった。しかも、何の注射かまったくわからない。死にそうな気がした。
 「なに? もう一本注射するのか?」
 男は答えずに、反対側の腕に注射し、トレーをわたしの方に押した。椀の中には野菜らしきものがちりばめられておじやが半分ほど入っていた。横に置かれていたスプーンで食べた。ガツガツと。
 (ああ、美味い。世の中にこれほど美味いものがあったなんて知らなかった)
 それほど美味かった。わたしは男がいるのも忘れて、一粒の米も残らず平らげたあと、椀を舐め上げた。
 「これじゃ足りない。もっとくれ」
 男は頭を横に振ると、クスリを飲むように促してきた。
 「これくらいじゃ、かえって腹が減ったよ。お願いだからもっとくれ」
 男は頭をもう一度横に振った。仕方がないので、クスリを口に放り込んで水を飲んだ。少しは腹の足しになった。

 その後、クスリと共に食事が運ばれてきたけれど、いつも同じおじやだった。けれど、文句を言える立場ではないことを知っていたので黙って食べた。

 衣食足りて礼節を知るという。食べ物にありついたわたしは、着ているものが気になるようになった。監禁される前日に着替えた下着をずっと着ていたわけで、汗と垢でかなりの悪臭を放っていた。
 「着替えが欲しい。できれば身体を洗いたい」
 食事を持っていた男にそう要求してみた。男はわたしの前にトレーを置くと、いったん部屋を出て行った。吉良にお伺いを立てるためだろう。
 食事を終えた頃、男は水の入ったバケツとタオルを持ってきた。浴室などへは行かせて貰えないようだ。
 男は手錠と足錠を外してくれた。しかし、首かせは外してもらえなかった。わたしは薄汚れた下着を脱ぎ、タオルを濡らして身体を拭いた。垢が後から後から出てきた。
 「下着は持ってきてくれたんだろうな?」
 そう男に尋ねると、男は袋をわたしに放り投げてきた。袋の中に下着らしきものが入ってきた。
 その下着を見て、わたしに与えられているクスリと注射が何なのかわかった。



 前嶋勝治を監禁しているのはわたしだ。前嶋は、監禁しているのが勤め先のライバルである吉良某だと考えているようだが、とんでもない勘違いだ。
 前嶋は自分の犯した罪が何なのかまったくわかっていない。おまえにはその罪に相当する罰を与えてやる。生きていられないと感じるような辱めを与えてやる。
 おまえを辱めるためにわたしはおまえにクスリを与えている。恐らくおまえはその正体に気づいただろう。そう。女性ホルモンと抗男性ホルモンだ。
 おまえはそのふたつのホルモン剤によって女へと変化していく。やがておまえの男性器は切り取られ、女性器へ変えられる。そして、男に陵辱されるのだ。
 前嶋勝治よ。それが女を弄んだクズへの罰だ。


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