第8章 元の世界に戻った


 長い、長い夢を見ていたようだ。ただ、思い出せない。何時頃だろうかと枕元にある時計を見ようとしてボクは息を飲んだ。
 (ここは、マンションじゃない!)
 市丸との愛の巣は、3LDKの豪華マンションだった。ベッドルームにはキングサイズのベッドがあり、ボクの寝ている側には化粧品が大量に載ったドレッサーがあったはずだ。ところがそれがないのだ。ベビーベッドも消え失せていた。
 「あなた、大変よ!」
 背中側にいるはずの市丸を起こそうと向きを変えてみたけれど、そこには誰もいなかった。
 部屋の中を見回す。
 (ここはボクが住んでいたアパートだ)
 ベッドは粗末なシングルで、ノートパソコンが載った小さなテーブルが置かれている。壁には、ワンピースではなくスーツが掛かったハンガーがぶら下がっていた。
 (ああ、パラレルワールドから戻ってきたんだ)
 そう思いながら、ハッとして身体を触ってみた。パラレルワールドでボクは性転換薬を飲んで女になっていたのだ。
 (女のままだ)
 起き上がってみると、Dカップに育っていた胸が重く感じられた。柄物のトランクスの中に手を入れてみると、当然の如く何も触れなかった。
 ぎゃああと大声を上げて泣きたいところをぐっと押さえた。
 (この1年半、こちらにいた女の正美はどうやって暮らしていたんだろう?)
 ベッドから抜け出た。ボクはトランクス一丁の半裸状態だ。タンスを開いて、Tシャツを取り出して着た。さらにイージーパンツを穿く。
 (しかし、散らかり方は以前通りだなあ)
 ベッドルームの中には、脱ぎ散らかしたワイシャツやTシャツ、ネクタイ、靴下などが散乱していた。
 リビングに移動してみた。もしかしたら、女の正美がいるかもしれないと考えたけれど、誰もいなかった。
 リビングも、読みかけの雑誌や新聞が散乱し、テレビにはゲーム機が繋がったまま放置されていた。
 テーブルの上には飲みかけのペットボトルや缶ビールの空き缶、カップラーメンの食べ残しが雑然と置かれていた。
 (あれ? このカップラーメン、パラレルワールドで目覚めた前日に食べたものと同じだぞ)
 床に広げてある新聞の日付を見て、ボクはゴクリとツバを飲んだ。そうしてから玄関に走り、郵便受けの中から新聞を取り出して日付を確かめた。
 (嘘だ。信じられない!)
 日付は、パラレルワールドで目覚めたと同じ日だったのだ。パラレルワールドで過ごした1年半あまりの月日は、こちらの世界では寝ている間の出来事だったことになるのだ。
 (そんなこと、あり得るのか?)
 あるいは、あの1年半は夢で、目覚めて女になっていただけなのかもしれない。それも夢のような話ではあるのだけれど。
 パラレルワールドが存在したのなら、優しい夫、可愛い娘のそばに戻りたいと願った。けれど、そんな願いは叶いそうもないと感じていた。
 無性に悲しくて泣いた。

 どれくらい泣いただろうか? ボクは涙を拭いて立ち上がった。
 (市丸や娘のことは諦めよう。それよりも、この世界でどうするかだ。男のボクが一夜にして女になっているんだ)
 パラレルワールドではボクは女装して出勤できた。けれど、今のボクのこの身体では、髪の毛を切り、胸にサラシを巻いて隠したとしても絶対に男には見えない。
 (取り敢えず年休を取ろう)
 ベッドルームの床に転がっている鞄の中から携帯を取りだし、大竹を呼び出す。すぐに大竹が出た。
 ボクはコホンとひとつ咳払いをして声を落として告げた。
 「大竹か? 風邪を引いちゃって。すまないんだけど、課長に届けて今日、明日年休を取ってくれないか?」
 《おまえが風邪を引くなんて初めてだな。馬鹿は風邪を引かないって言うのにな》
 「頼むよ」
 本来ならば、ここで軽口の応酬になるところだけれど、声がおかしいことに気づかれる前に携帯を切った。
 これで月曜日まで猶予ができたわけだが、そのあとはどうすればいいのかわからない。
 (困ったぞ。誰かに相談した方がいいだろうな。好美か? 好美は今頃は大学だな。夕方連絡を入れてみるか)
 思いながら、ふと部屋の汚さが気になった。肩まで伸びている髪の毛をハンカチで結び、早速掃除に取りかかった。

 汚れ物を洗濯機に投げ込む。中には数日分の汚れ物が入っていた。
 (毎日洗わないと汚れが落ちないんだよな)
 そんなことを思ったことがないのに、ブツブツ言っていた。洗濯機にスイッチを入れてから、雑誌や新聞を片付け、ゲーム機も棚の中に納めておいた。
 掃除機を掛け、拭き掃除を終えたところで洗濯が終わったことを告げるブザーが鳴った。皺を伸ばしてから、ベランダに干した。
 洗濯物を干していると、お隣に住む若奥さんと目があった。軽く会釈しておいたけれど、ちょっと首を傾げていた。
 片付けを終えてホッとすると、腹がくうと鳴った。
 (何か作って食べよう)
 何かと言っても、恐らくインスタントラーメンのたぐいしかないだろう。ただ、今のこの姿では外出は躊躇われた。
 キッチンにある棚の中からインスタントラーメンを取り出そうとすると、チャイムが鳴った。
 ギョッとして手が止まった。居留守を使おうと物音を立てないようにしていると、ドアがどんどんと叩かれた。
 「正美! 正美! 大丈夫なの?」
 母の声だった。
 (大丈夫なのって、どう言うことだ?)
 いつまでたってもドアを叩き続けるので、やむなくドアを開いた。母はボクの顔を見たけれど、無視して部屋に上がり、ベッドルームのドアを開いた。
 「正美! あら? 正美? どこなの?」
 ベッドルームの中を見回し、振り返って正美はどこにいるのとボクに尋ねた。
 「あ、あのう。会社です」
 「会社? 風邪で休むって会社に連絡があったって、大竹さんが連絡してきたのに?」
 母がやってきたわけがわかった。
 (大竹のやつ、母に連絡してくれるなんて、気が利いてるな)
 「正美はどこにいるの!?」
 睨むようにして母がボクに詰め寄った。
 「ごめんなさい。知らないんです」
 「知らない?」
 母はボクの顔をじろりと見た。
 「あなた。正美とどういう関係?」
 「え? あ、あのう・・・」
 言い淀むボクを見つめながら、母は小首を傾げた。
 「あなた、もしかして・・・」
 母は急に狼狽えた表情をして、玄関のドアの鍵を確かめ、ベランダ側にあるカーテンを閉めた。ようやくボクだと気づいたようだ。
 「正美、いつからそんな格好をし始めたの?」
 母はボクが女装していると思っているのだ。
 「そうして黙ってるの! 何とか言いなさい!!」
 ボクの髪の毛を掴んで振り回した。
 「いた、いた、痛い!!」
 叫ぶと母は手をぱっと離して、自分の手を見つめた。それからボクを見て言った。
 「ウイッグじゃないの?」
 「地毛だよ」
 「先週家に来たときは、短かったわよね?」
 「地毛だって言ってるだろう?」
 そう答えると、肩口あたりの髪の毛を掴んでからにたりと笑った。
 「わかったわ。これ、エクステね? そうでしょう? その膨らんだ胸には何を入れてるの!」
 Tシャツの襟をグイと引っ張った。左の胸が露わになり、ボクは慌てて手で押さえた。
 「あら!? まるで本物じゃないの? よくできてるわね?」
 押さえていたボクの手を払いのけてジッと見つめた。
 「違うよ。これは本物だよ」
 「本物? ・・まさか、豊胸術を受けたなんて言わないでしょうね?」
 「豊胸術なんて受けてないよ。本物だって言ってるだろう?」
 「馬鹿おっしゃい! 男のあなたの胸が膨らむはずがないでしょう?」
 「女になったんだよ!」
 「はあ? 何ですって!?」
 母は呆れた顔をした。
 「今朝目が覚めたら、女になっていたんだよ」
 「冗談も休み休み言いなさい。お母さん、怒るわよ」
 「冗談なんかじゃないんだよ。ホントに女になっちゃったんだよ」
 ボクはイージーパンツとトランクスを膝まで降ろした。男だったら、いくら母でも股間を曝すなんてことはできない。けれど、今は同性だし、緊急事態なのだ。それに、直立した姿勢では、恥ずかしい部分は見えないことを知っていたからだ。
 「な、ない・・・」
 母は目を見開き、ボクの股間あたりを見つめている。けれど、少したって急に笑い始めた。
 「何が可笑しいんだよ?」
 「あなた。正美によく似た女の子ね?」
 「は、はあ?」
 「大竹君だわね。大竹君と正美が組んで、ドッキリを仕掛けたに違いないわ。正美! どこかに隠れてるんでしょう? 正美!! どこなの?」
 母はトイレのドアを開いて見ている。
 「隠しカメラかしら?」
 そう呟きながらボクのそばに戻ってきた。
 「お袋、ドッキリなんかじゃないよ。ボクだよ。ホントに女になってしまったんだよ」
 「あなた。いい加減にしなさいな。目が覚めたら女になっていた? そんなことがあるはずがないでしょう?」
 睨まれた。信じてくれないのは当然だろう。信じて貰うにはパラレルワールドで使った方法しかない。ボクとわかる痣とホクロを母に示した。
 「え? え? ええっ!?」
 痣とホクロを何度も指で擦り、そうしてからボクの顔を見た。
 「ホントに、正美なの?」
 ボクは頷く。
 「ホントに女になってしまったの?」
 「うん。今朝、目が覚めたら、こうなっていたんだ」
 「どうしてなの?」
 「それがわかったら苦労しないよ」
 「元に戻るのかしら?
 「うーん。例えば、誰かがボクに魔法を掛けたり、呪いを掛けたりしたんだったら、それを解いて貰えばいいと思うんだけど?」
 「誰がそんなことをするの?」
 パラレルワールドでは、女の正美と市丸の中を嫉妬したストーカー女が黒魔術を使って男のボクを呼び寄せたわけだ。
 ボクはどうかと言えば、付き合っている女性がいれば、その女性を奪い取ろうとした男がボクを女にしたと言う可能性もあるけれど、ボクにはそんな女性はいない。
 「大竹君の悪戯かしら?」
 ボクも同意見だ。それ以外には考えられない。
 「大竹君に連絡を入れてみる?」
 「いや、あいつの企みだったら、日曜日までには元に戻してくれると思うんだ。だから、様子を見ようと思うよ」
 「大竹君のせいでなかったら?」
 「そんな恐ろしいことを言わないでよ」
 「そうね。ところで、いつ戻るかは別として、その格好はいただけないわね?」
 「だって、他に着るものがないんだもの」
 「お母さんが持ってきてあげるから。ちょっと待ってなさい」
 「わかった。あ、それと、何か食べ物を買ってきてくれる? 腹が減っちゃって」
 「それなら持ってきてるわ」
 持ってきた買い物籠の中から耐熱容器に入ったものをボクに差し出した。
 「レンジで温めて食べておきなさい」
 「わかったよ」
 「正美?」
 「何だよ」
 「今は女の子なのよ。女の子らしい言葉遣いをしなさい」
 そう言い残して母はアパートを出て行った。耐熱容器の中にはおじやが入っていた。レンジで温めて食べた。野菜たっぷりで美味しかった。

 1時間ほどして大きな袋を抱えた母が戻ってきた。
 「はい。着替えて」
 「なに? これ。誰の?」
 ショーツを広げてみた。どう見ても新品じゃない。
 「わたしのよ」
 「おふく、お母さんの? お母さんのおふるを履けっていうの?」
 「今晩にでも元に戻るかもしれないのに、新しいのを買うなんて、勿体ないわよ」
 「そりゃ、そうかもしれないけど・・・・」
 「文句言ってないで、さっさと履き替えなさい! それとも、ノーパンで行くの?」
 「わかったわよ」
 母のおふるだけれど、若いボクが履いてもいいようなものを選んできたようだ。ブラジャーも同様だった。
 「これ着るの? もう少し若向きのものは持ってないの?」
 「好美のを借りようかなとも思ったんだけど、許可を得ないとうるさいでしょう? それで我慢して」
 茶色のミディ丈のスカートに、カーキ色のTシャツを着た。鏡を覗いてみると、独身女性と言うよりも若奥さんといった感じに見えた。
 「いいじゃないの。少し化粧をした方がいいわ」
 化粧箱を広げた。1年半のパラレルワールド暮らしで化粧は自分でやれるようになっていたけれど、今朝女になった男が化粧をやれたらおかしいと思って母に任せた。
 10分後に仕上がったボクの顔は、やっぱり若奥様という感じだった。
 「ところで、どうするの? 元に戻るまでここにいるの? それとも家に帰る?」
 「好美とかお父さんに知られたくないわ。どうしても元に戻らなければ、帰るけど?」
 「そうね。わかったわ。じゃあ、困ったことがあったら連絡するのよ」
 「はい」
 「あ、それから、戸締まりには気をつけてね。今は女の子なんだから」
 ボクは頷き、母を送り出すと玄関に鍵を掛けた。
 (あ、食料品)
 ドアを開いて母を追いかけようとしたけれど、母の乗った軽にエンジンが掛かる音がした。すぐに降りていっても間に合わない。
 (携帯、携帯)
 ベッドルームに行き、携帯を取り出す。掛けたけれど、出ない。運転中だからでないんだ。
 (仕方がない。買い物に行こう)
 パラレルワールドと違って、今のボクは女なのだ。別に問題はないと考えた。母が残していった化粧箱を開いて、アイシャドーをやり直し、財布を持って玄関へ向かった。
 (あ、履くものがない)
 下駄箱を開き、サンダルを取り出して履いた。
 (女は男物を身に着けても不思議に思われないんだよな)
 鍵を掛けて近くのスーパーに出向いた。

 肉、魚、野菜、調味料などを買い込んだ。こんなに買ったのはひとり暮らしを始めた当初くらいだ。
 何の問題もなくアパートに戻った。買ってきたものを冷蔵庫に収め、昼食として焼きそばを作った。結構上手くできた。1年間の主婦業のお陰だ。
 携帯が鳴り始めた。母からだった。
 《どうかしたの?》
 「ああ、買い物を頼もうと思ったけど、もう行ってきたわ」
 《あ、そう。よくひとりで行けたわね?》
 「男が女装している訳じゃないから」
 《そうね。じゃあ、いいわね?》
 「うん。用事があったらまた掛けるわ」
 携帯を切り、片付けを終えて、ゲーム機をセットして遊んだ。パラレルワールドではゲームはまったくやらなかったから、随分久しぶりだと考えながら、ゲームに興じた。

 午後5時になり、さすがに疲れてゲーム機を片付け、夕食の準備に取りかかった。米を研いでセットし、鯖の味噌煮と豚汁を作ろうと野菜を刻み始めてすぐにチャイムが鳴った。
 (誰かな? お袋かな?)
 何気なくドアを開けて、ボクは後ずさった。大竹が立っていたのだ。



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