第3章 妹の協力を得て


 好美の指示に従って、鏡に向かって化粧を施している。その手順を紙に書き、注意点を添えていた。
 「不思議な気分だわ」
 「どうしてよ?」
 「だって、わたしが高校を卒業したとき、お姉ちゃんに化粧を教えて貰ったんだもの」
 「え? 好美、あなた、高校時代から化粧をしてなかったっけ?」
 「高校時代は化粧なんてしてないわよ」
 怒ったように答えた。
 「ああ、好美が高校時代から化粧をしていたのは、向こうの世界の話だわ。確か2年生の頃から化粧をしていたわね。髪も染めてたし」
 「信じられない。そうも違うものかしら?」
 「男と女の違いほどじゃないわ」
 そうよねと好美は賛意を示した。
 「これで終わり?」
 ボクはマスカラを塗り終わって好美に尋ねた。
 「終わりよ。なかなかいいんじゃないの?」
 「そうだね」
 鏡に映ったボク自身の顔を見ながら感心した。化粧をすると、ぐっと女ぶりが上がったと感じたのだ。
 「マスカラって、なんだか、奇妙な感じだね?」
 どうしてと好美がボクの顔をのぞき込んだ。
 「だって、瞬きすると、目の前を黒いものがバタバタ動くんだもの」
 「ははは。慣れよ、慣れ。そんなの、すぐに気にならなくなるわ」
 ところでと好美はボクの胸を押した。
 「ブラのカップの中は、何を詰めてるの?」
 「スカーフよ」
 「スカーフねえ。手を挙げたりしたら、ずれたりしない?」
 「えっ?! やってないからわからないわ」
 手を挙げたり下げたりしてみた。
 「大丈夫みたいだけど」
 「なら、いいけど、スカーフなんかより、パッドの方がいいと思うわ」
 「パッドなんてなかったもの」
 好美は時計を見上げ、買ってきてあげるとボクに告げ、右手を差し出した。
 「何よ?」
 「お金。パッドはただじゃないのよ」
 財布から千円札を取り出そうとすると、好美は万札をさっと引き出した。
 「おつりはお駄賃ね」
 そう言い、部屋を出て行った。化粧ができたんだから、自分で買いに行けばよかったと思ったけれど、化粧を教えてくれたコーチ料と思えば安いものだと考え直した。
 (ボクのお金じゃなくて、女のボクのお金だからね)
 心の中で舌を出した。

 30分ほどたった頃、好美が小袋を抱えて戻ってきた。
 「はい。パッド」
 袋をひっくり返すとパッドが出てきた。
 「こんなに?」
 バラバラと何個も落ちてきたのだ。
 「お姉ちゃんのブラサイズだったら、片方にみっつは必要だよ」
 早く取り替えなさいよと促されて、スカーフとパッドを取り替えた。
 「なかなかいいじゃない? 触った感じもいいし」
 手のひらで押さえるようにして好美が触ったあとをボクも触ってみた。本物とは言えないまでも、スカーフの時より遙かに感触がよかった。
 「でもねえ。万が一カップの中からずり落ちたとき、スカーフならどうってことないけど、パッドは恥ずかしいわね」
 「あ、そうね。だったら、落ちないように糸かなんかで固定すればいいわよ。裁縫箱はどこ?」
 「どこだろう?」
 ボク自身は裁縫箱など持っていない。だから、この部屋にあるとしてもどこにあるのかわからないのだ。
 勘よく好美はクローゼットの中から裁縫箱を見つけ出してきて、ボクにブラジャー外してと命じた。ボクはパッドごとブラジャーを好美に渡した。好美は、針を数回刺して、ブラジャーの表面に×印が入るように糸を掛けた。
 「これなら外れないと思うわ」
 ブラジャーをぶんぶん振り回してからボクに戻してきた。受け取ってそそくさと着け直す。男のボクがブラジャーを着けるところを見られるのは恥ずかしい。しかし、事情が事情だから、仕方がない。
 「いつ元に戻るのかしら?」
 「さあ。今晩元に戻るかもしれないし、明日になっても明後日になっても元に戻らないかもかも」
 「ずっと元に戻らないかもしれないわね。死ぬまで」
 「恐ろしいことを簡単に言うわね?」
 それもあり得ると思っていたけれど、考えたくもなかった。
 「もしそうなったときはどうするつもりなの?」
 「そうねえ。どうしたらいいと思う?」
 「ある朝目覚めたら男になっていたって公表する」
 「理由は? わたしの考えたパラレルワールドなんて信じてもらえる?」
 「そうねえ。誰かに魔法を掛けられて男にされたって言うのはどう?」
 「魔法だったら、元に戻せるんじゃないの?」
 「じゃあ、一生元に戻せない呪いを掛けられたって言うのは?」
 「呪い・・・。実際にあり得るの?」
 「パラレルワールドよりも説得力があると思わない?」
 そう言えばそうかもしれない。ただ、それは好美から見た考え方であって、ボクから見ると、呪われてパラレルワールドに放り込まれたと言うことになるのだ。
 「いずれにしても、今は男だとばれないように女として頑張らないといけないわね?」
 「そうよね。いつ元に戻っても、好美のお姉さんが困らないように」
 「何か助けて欲しいことがあたらいつでも来るから、連絡して」
 好美はそう言い残してアパートを去っていった。世界が違うけれど、やっぱり妹は頼りになると感じた。

 好美がいなくなってから、すぐに化粧をクレンジングオイルで落としてやり直した。午前0時を回るまで何度も何度も。好美がいるのといないのとでは仕上がりがまったく違う。ぜんぜん上手く行かない。
 アイメイクが難しい。特にマスカラは大変だ。ダマができたり、眼瞼に付いたり。それに眉だ。口紅ははみ出ても何とかなるけれど、眉はそう言うわけにはいかない。
 それでも、最後の化粧を終えた頃には、好美にコーチして貰ったくらいの仕上がりになった。
 (うひゃあ、疲れた)
 化粧を落とし、シャワーを浴びたあと、好美の言いつけ通りに顔の手入れをしてベッドに入った。
 疲れていたのか、夢も見ないで寝た。

 まだ元の世界に戻っていないことが今朝は目が覚めてすぐにわかった。ブラジャーをしたまま眠ったからだ。
 3日連続で同じ服に着替えた。普通の女の子ではあり得ないことだろう。けれど、どこに行くわけでもないし、この服装が女の子の振る舞いを覚えるのにいいと思うのだ。
 顔を洗ってから化粧を施した。練習の効果があって、結構上手くできた。それから飯を炊いて、味噌汁を作った。
 (向こうの世界だったら、絶対にこんなことはしないな)
 もちろん、女装して外に出掛ける自信がないだけの話ではあるけれど。

 朝食を食べようとすると、鍵が差し込まれる音がしてドアが開いた。
 「あれ? もういいのか?」
 姿を見せたのはもちろん市丸だ。来ることは予想できていたのに、好美とのことですっかり忘れていた。
 「うん。少し気分がいいから起きたの」
 「今日は仕事は休みなんだから、ゆっくり寝ていた方がいいぜ」
 テーブルの上に、包みを置いた。中にはハンバーガーが入っていた。
 「美味そうだな。味噌汁、まだあるのか?」
 「あるわよ」
 「じゃあ、これは昼飯用に置いといて、ご馳走になろう。あ、俺が注ぐからいいぜ」
 いつもは恐らくボクというか、女のボクが用意をするのだろう。機先を制した形で市丸はキッチンへ入り、飯と味噌汁を注いでボクの向かいに座った。
 「いただきます」
 ガツガツと食べ、正美は料理が上手いなと言った。これで上手いというのなら、誰が作っても上手いと言うんだろうなと考えながら、味噌汁を啜った。

 ボクが食べ終わるのを待って、市丸は食器を片付け始めた。
 「わたしがやるわ」
 「風邪の時は水を当たるのが一番悪いんだよ。俺が洗うから、おまえはもう寝ろ」
 このままいると男だとばれそうなので、パジャマに着替えてベッドに潜り込んだ。
 「風邪薬は飲んだのか?」
 飲んでいないというと、コップに入った水と薬を持ってきて、ボクが飲むまでそばにいてにこやかに笑顔を向けていた。
 コップを片付けた市丸は、そのままリビングに居座ってテレビゲームに興じ始めた。
 (あちゃあ、ずっといるつもりだよ)
 それなら、ボクとしてはベッドの中で狸寝入りするしかない。風邪薬のせいか、そうこうしているうちに眠り込んでいた。

 目が覚めた。時計は午前10時前だ。市丸はまだゲームをやっていた。ガチャッと玄関のドアが開いて誰かが入ってきた。
 「あら? 市丸さん、来てたの?」
 好美の声だ。
 「おう、好美ちゃん、久しぶりだな」
 ふたりの会話からすると、好美は姉が市丸と付き合っていることを知っているようだ。
 「お姉ちゃんは?」
 「薬を飲んで寝てるよ」
 「そう」
 足音が近づいてきた。
 「お姉ちゃん、大丈夫?」
 ボクの額を触った。
 「熱はないみたいね」
 そう言い、耳元で市丸さんにばれなかったのと尋ねた。
 「ばれてない、ばれてない」
 「へえ、大したものね。でも、長くいたらばれるかも?」
 「そうなの。だから、ベッドの中よ」
 なるほどと好美は頷いている。
 「いつ頃出ていくかしら?」
 「さあ。ちょっと前、お姉ちゃんに聞いたんだけど、土曜日の朝やって来て、日曜日の夕方までいるらしいわ」
 「もちろん、お泊まりね?」
 好美はニッコリと笑って、当然でしょうと答えた。
 「迫られたらどうする?」
 「馬鹿なことを言わないでよ。わたしにそんなことができるわけがないでしょう?」
 「とりあえずは風邪で臥せってるわけだから、襲ったりはしないとして、問題は風邪が治った時よね」
 「それより、問題は今日よ」
 「それなら任せといて。来週からは、生理が始まったってことにする」
 「生理になったことがないからわからないけれど、一週間くらいで終わっちゃうんでしょう?」
 「一週間たったら、別の手を考える」
 そう言い残して好美はベッドルームを出て行った。
 「市丸さん、あとはわたしがお姉ちゃんの面倒を見るから心配しないでいいわ」
 「えっ!? ああ、そう。じゃあ、任せるよ」
 そんな声が届いてきて、すぐに市丸がベッドルームに姿を現した。
 「じゃあ、気をつけるんだぞ。必要なものがあったら持ってくるから電話してくれ」
 例によってディープキスして出ていった。玄関口まで好美が送っていき、今度ご馳走してねなどと言っていた。
 鍵を掛ける音がして、すぐに好美がベッドルームにやってきた。
 「お姉ちゃん、いつもあんなキスをしてるんだ」
 クスクス笑いながら言う。
 「し、仕方がないでしょう? わたしは、女ってことになってるんだから」
 「そうね。結婚を前提に付き合ってるんだから」
 「えっ! 結婚!!」
 「そうよ。秋には結納、来年春に式を挙げるって段取りになってるんだけど、男になっちゃったら、どうなるんでしょうね?」
 「早く元に戻ることを祈るしかないわね」
 「そう言うことよ。ところで、話は変わるけどお。上手く化粧できてると思うけど、寝るときは化粧を落とさないといけないって教えなかったかしら?」
 「あ、市丸さんが突然やってきて寝てろって言ったから」
 「言い訳無用!」
 「じゃあ、落としてくるわよ」
 起き上がろうすると、化粧は落とさないでいいと言う。
 「どうしてよ?」
 「女の子らしく振る舞う練習をするんでしょう?」
 わかったわと答えて、パジャマをいつもの服に着替えた。
 「そればっかりなのね?」
 「これが一番女の子としての振るまいが身につくと思って」
 「確かに」
 納得して、ボクに歩いてみてとか、座ってみてとか命じた。

 好美のおかげで、日曜日の夕方にはボクはすっかり女の子として振る舞うことができるようになっていた。もちろん、化粧も完璧にマスターできた。
 「明日からは会社に出るんでしょう?」
 「何とか出られそうだわ」
 「会社の中のことはわかっているの?」
 「向こうの世界と変わっていなければ、大丈夫と思うわ」
 「変わっていないことを祈ってるわ」
 そう言い残して好美は実家に戻っていた。

 好美が消えてから10分ほどたった時、玄関ドアが音もなく開いた。入ってきたのは市丸だった。
 「正美、すっかりいいようだな?」
 市丸はボクの顔を見てから、ニッと笑った。
 「え? ええ」
 パジャマを着ていれば、まだ悪いと言い訳できたのだけれど、パジャマではなく、好美に選んで貰ったキャミソールとスカートを穿いていた。
 「いいだろう?」
 市丸は、ボクのそばに歩み寄ってきてお尻を撫でた。これはベッドインの要求だとすぐにわかった。
 「ごめん。始まっちゃったの」
 これ以外の言葉を用意していなかった。
 「始まった? 生理がか?」
 「うん」
 「予定は来週からだろう?」
 リビングの壁に掛けてあるカレンダーを捲って確かめている。好美の言葉によれば、2年付き合っていると言うから、そう言ったこともよく知っているようだ。
 「か、風邪の影響でずれたみたい」
 何とか、生理を正当化する。
 「そうか」
 「夕食、今から作るんだけど、食べていく?」
 話題を逸らす。
 「溜まってるんだよな?」
 あからさま過ぎるなと思う。けれど、これがこの世界の正美と市丸の常態なのだろう。
 (生理中でもやるなんてことはないだろうな?)
 もしそうだったら、拒否する次の手だてを考えなければならないのだ。
 「ねえ、食べていくの? どうするの?」
 ともかく、話を別の方向へ持って行くことだ。
 「何を作るんだ?」
 キチンの中を覗いた。
 「カレーよ」
 「カレーか。まあ、いいや。早く作れよ」
 そう言い、ソファーに座ってテレビのスイッチを入れた。ボクはカレールーを投入して、完成させた。

 カレーを食べたあとも、市丸はコーヒーを入れてくれだなどと言ってなかなか帰ろうとしない。
 「正美?」
 「なに?」
 「やってくれるだろう?」
 「え? 何を?」
 ベッドインを要求するなら、もう少し違う言い方だろう。
 「いつものやつだよ。生理の時はやってくれるだろう?」
 市丸はズボンのジッパーをおろしていく。ボクはごくりとつばを飲んだ。



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