第11章 会社復帰への下準備


 ドアが叩かれる。
 「正美! 正美! いるのはわかってるのよ! 早く開けなさい!!」
 開けた方がいいんじゃないかと大竹が言う。そうねと同意してベッドから抜け出した。
 「ちょっと待って! すぐに開けるから」
 ドアに向かって叫び、ベッドの下に落ちていたショーツを穿いて、ベビードールを頭から被りながら玄関に向かった。
 ドアを開くと、母がボクの姿を見て目を丸くした。
 「そんなものを着て。信じられないわ」
 ズカズカと入ってくる。同時にベッドルームからベルトを締めながら大竹が出てきた。
 「ちは。どうも」
 「大竹君。まだいたの?」
 ボクの方を睨んだ。
 「は、はあ」
 「ったく。正美、これから出掛けるから、もう帰ってもらえる?」
 「えっ! どこに?」
 「大竹君には関係ないでしょう! 早く!!」
 怒ったように言われ、大竹はまた来るとボクに囁いてから上着を手にして出ていった。
 「一昨日からずっといるの?」
 ボクは頷く。
 「まるで盛りの付いた犬猫ね」
 弁解しようがない。
 「はい。これに着替えて」
 手にしていたピンキッシュグレーというか、そんな色のスカートスーツをボクの目の前に差し出した。
 「着替えてどこに行くの?」
 「社長さんに会いに行くの」
 「えっ! 社長に!?」
 「そうよ。あなた、男に戻りそうもないし、戻るつもりもないようだから、明日から女として会社で働かせてもらえるように交渉に行くのよ。わかった?」
 「お母さんが行かなくても・・・」
 「あなたがきちんと説明できるとは思えないわ。首になったら困るでしょう? この不況時に。あんないい就職先が見つかるとは思えないんだから」
 母の言うことはもっともだ。ボクはスカートスーツを受け取った。
 「あ、ストッキングを忘れた。取って来なくちゃ」
 「パンストを買ってあるわ」
 「あら、そう」
 ボクはデパートで買ってきた下着を取り出して身に着け始めた。
 「あら? その下着は?」
 「お母さんの下着、ダサイもの。買ってきたのよ」
 「そうでござんしょ!」
 そう言い、興味深げにボクが黒の下着を身に着けるのを見ている。
 「わたしがもう少し若かったら、そんなセクシーな下着を着られるのにな」
 「あら? お母さん、まだ若いんだから、着てみたら? これ着てみたら?」
 赤のペアを渡す。
 「恥ずかしいな」
 そう言いながらも嬉しそうにしている。母くらいの年になれば、そんな下着を身に着けることよりも買うこと自体が恥ずかしいのだろう。
 パンストを履き、ブラウス、スカート、そして上着を着た。
 「よく似合うわ」
 「新品じゃないみたいだけど、誰の?」
 「好美が入学式に着た服よ」
 何となく見覚えがあった。
 「背丈が違うけど、スリーサイズは同じくらいに見えたから、きっと着られると思って持ってきたのよ」
 母の勘は大したものだ。バスト、ウエスト、ヒップともぴったりだ。ただ、ボクの背が高い分、スカートがかなり短めになっている。
 鏡に向かって化粧をやり直し、寝乱れた髪の毛をブラッシングする。
 「このバッグに、化粧直し用に少し化粧品を入れて。ハンカチも忘れないでね」
 「何時に会いに行くの? 社長には」
 「午後1時でアポを取ってるわ」
 「まだ、1時間もあるじゃない?」
 「1時間しかないわ」
 母は約束の時間に遅れることを極端に嫌う。時には30分以上早く行って待つことがあるのだ。ま、こういう場合、相手を待たせてはいけないので、早く行って、家の近くで訪問時刻を待つというのが最良だろう。

 母の運転する軽に乗っていったのだけれど、日曜日の真っ昼間というのにやけに込んでいて全然進まない。原因は追突事故だった。
 「早く出て正解だったでしょう?」
 こういう不測の事態があるから、早く出るんだと母は自慢げに胸を張った。

 社長の自宅前に着いたのは約束の10分前だった。ぎりぎりまで待ってから玄関のチャイムを鳴らした。
 「お約束していた佐田です」
 インターフォンで告げると、ドアが開いて奥さんらしき女性がどうぞと言った。スリッパを履いてその女性について行くと、応接間に通された。骨董品らしきものがまったくないシンプルな応接間だ。
 ややって社長がやってきた。
 「申し訳ございません。お休みのところ」
 「いやいや。構いませんよ。急ぎの用事と聞きましたが?」
 社長はいわゆる目下の者に対しても丁寧だ。
 「電話でお話ししましたように、わたしの息子の件でして」
 「息子さんは、我が社の経理課に勤務されていたんでしたね?」
 「はい。その息子に大変なことが起こってしまいまして」
 ボクの方をちらりと見てから告げた。
 「大変なこととは?」
 「実は、息子が突然女になってしまったんです」
 そう言えば驚いた顔をすると思ったのに、社長はほうそうですかと簡単に答えた。
 「どこかで見かけたお嬢さんだとは思ってたんですが、キミが佐田君なんだね?」
 ボクはハイと小さく答えた。
 「先週会社で見かけたときはそんな様子はなかったようだが、いつから女性になろうと思ったんだね?」
 「社長! そんなんじゃないんです。わたし、女になろうなんて思ったことは一度もないです」
 「何だって? 性同一性障害とか言うものではないのかね?」
 違いますとボクは答えた。
 「では、何故女装してるのかね?」
 「女装というのは、男性が女物の服を着ることでしょう?」
 社長は頷いた。
 「わたし、女なんです。だから、女装ではないんです」
 「よくわからんな」
 社長は首を傾げた。
 「木曜日の朝、目を覚ましたら女になっていたんです」
 「はあ? 馬鹿な。そんなことがあるはずがない」
 馬鹿にしたように言った。
 「本当なんです。信じていただけないのなら、裸になります」
 「いや、いや。そんなことはしなくても、キミが本物の女性だと言うことはわかる。ただ、佐田君だという証拠はあるのかね?」
 「そのことならわたしが証明します。正美には生まれついての痣があるんです。首筋のここに」
 母はボクの髪の毛をすくい上げて首筋を見せた。ボク自身は直接見たことはないけれど、崩したハート型の痣があるのだ。
 「うーん。俄に信じがたい話だな」
 社長は腕組みをして考える。
 「佐田君が突然失踪してしまって、よく似た彼女を連れてきて、佐田君が女になったと偽る」
 ブツブツと言った。
 「社長! 経理の仕事は一朝一夕にできるものでしょうか?」
 「あ、いや。急には無理だろう」
 「明日、わたしに仕事をさせてください。そうすれば、わたしが佐田正美だと言うことがわかります」
 「なるほど。そうだな。もしキミが佐田君でなくても、仕事さえきちんと進めてくれればわたしには異存はない」
 中途半端な結論だ。
 「仕事でわたしが佐田正美だと証明して見せます。よろしいですね?」
 「わかった。わかったよ」
 その言葉を聞いてボクと母はホッとした。
 「しかし、社のみんなにどう説明するかな?」
 「妙な言い訳はしたくありません。突如男から女になったと説明してください。嘘はいつかは綻びるものですから」
 「確かにその通りだ。そうしよう。・・・目覚めたら女になったという話は信じがたいが、キミが佐田君だと言うことは本当らしいね」
 「はい。真実ですから」
 ボクは胸を張った。ここで母が横から口を挟んだ。
 「女になったからと言って待遇とかは変わりませんよね?」
 「は? ああ、もちろんですとも。我が社は仕事主義、仕事ができれば、男女の区別はない。先代からその方針です。心配されないでよいですよ」
 「では、社長。明日8時に出勤いたしますので、課長初め、フロアのみんなにわたしが女性になったこと、今まで通り働くことを伝えてください。お願いいたします」
 快く引き受けてくれる社長が大きく見えた。

 社長宅からの帰り、実家に立ち寄った。通勤用の服を物色するためだ。ボクとしてはボク用の新しい服が欲しかったけれど、いつ元に戻るかわからないのに勿体ないと母が言うので仕方がなかった。
 「ただいま」
 母に続いて玄関を上がった。父はボクの顔を見たけれど、何も言わずに碁盤に目を落とした。好美だと思ったのかもしれない。
 「お母さん、お帰り! どこ行ってたの?」
 2階から好美が下りてきて、父はあれっと言うような表情をしてボクをもう一度見上げた。
 「好美じゃないのか?」
 父は首を傾げ、ボクの顔をまじまじと見た。
 「あっ! それ、わたしのスーツでしょう? どうしてその人が着てるの?」
 好美がボクを指さして抗議した。
 「えっ!? もしかして、お兄ちゃん?」
 その言葉に、父もボクだと気づいた。
 「貴様! 男のくせに女の服を着るとは何事だ!!」
 立ち上がってボクに殴りかかろうとした。
 「お父さん。待って。これには事情が」
 母がボクと父の間に割って入った。
 「事情も糞もあるか! オカマを育てた覚えはないぞ! 早くその服を脱げ!!」
 「正美は女になってしまったの」
 「言い訳は聞かん! 早くその服を脱げ!!」
 怒り心頭の父を押さえるのは大変だ。ついにボクは頬を殴られてしまった。
 「お父さん、お父さん。正美はホントに女になってしまったのよ。木曜日の朝、突然。ホントなのよ」
 母が父にしがみつき、ボクを足蹴にしようとした父を止めた。
 「男が突然女になるわけがないだろう!」
 「嘘じゃないの。わたしがこの目で確かめたんだから」
 「何だって!?」
 父の勢いが止まった。けれど母と言い争う。
 「そんなことはありえんだろう?」
 「事実は小説よりも奇なりって言うでしょう? 正美は今は女なのよ」
 「悪い冗談としか思えない」
 勢いは収まっても、とても信じてはもらえそうもない。
 「お母さん、お父さんに信じてもらうためには服を脱ぐしかないわ」
 ボクは上着を脱ぎ、ブラウスのボタンを外していった。父は自分の意見が正しいのだからと言わんばかりに腰に手を当ててボクが脱いでいくのを見ている。
 ブラウスを脱ぎ、胸の谷間が見えると、父の様子が少し変わった。スカートを降ろす。
 「お父さん、ほら、胸もあるし、男のものが付いてないでしょう?」
 「まさか。・・いいや。胸は作り物だ。棹と睾丸は隠しているんだ」
 狼狽えながらもまだ信じようとしていない。
 「そんなに言うんだったら、全部脱ぐわ」
 ボクはブラジャーを外してパンストを下げた。
 「正美、そこまでしなくても」
 「裸にならないと信じてくれないでしょう? わたし、身体は女になってるけど、心はまだ男だから、お父さんに見られたって恥ずかしくないから」
 ショーツも下ろし、父にさあ見てくださいと告げた。父は幻暈を覚えたのか頭を押さえて畳の上に座り込んだ。
 「お兄ちゃん、ホントに女になってしまったの?」
 「男だったら、好美には見せたくないけど、今は同性だから、見てもいいわよ」
 好美はボクの胸を触り、それから女に部分を下から覗き込んだ。
 「ホントに女だ。でも、お兄ちゃんだって言う証拠は?」
 「みんなそう言うんだね。まあ、あり得ないことが起こったんだから、仕方がないと思うけど、お母さん、言ってやって」
 ショーツとパンストをあげながら母に言った。
 「首筋の痣が正美のものよ。お尻のホクロもね」
 「どうしてそんなことになったの?」
 「わかれば苦労しないわ」
 「原因がわからないってことは、男には戻れないってことなの?」
 「恐らくね」
 ブラジャーをしてから、もっと楽な服はないのと母に尋ねた。
 「好美、何か出してあげて」
 「わかった」
 好美は階段を駆け上っていった。
 「元に戻れないというのは本当か?」
 父が力なく尋ねた。
 「今のところは。ただ、絶対に元に戻れないとも言えないわ」
 それでも父は元に戻れないと考えたようで、はあと溜息を吐いた。

 好美が持ってきたキャミソールとイージーパンツを着る。好美はイヤにニコニコしている。
 「だって、お姉ちゃんが欲しかったんだもの」
 「おねだりして、何か買って貰うつもりだな?」
 ボクがそう言うと、わかった?と笑顔を向けてきた。好美はホント、愛すべき妹だ。
 「会社はどうするの?」
 「ああ。それで、さっきお母さんと社長の自宅に行ってきたの。女になってしまいましたけど、明日からも働かして下さいって」
 「何て?」
 「もちろん、オーケーよ。今まで通り、経理課で働けるわ」
 「取り敢えずよかったね。・・お父さんはショックみたいだけど?」
 父の方を見て好美が声を落として言った。
 「あとで、サービスしてあげましょう」
 「女の子の濃厚なサービスを?」
 ボクと好美はキャハハと声を上げて笑った。兄、妹よりもずっとやりやすいと感じた。

 母が夕食の準備をしている間に、ボクが着られそうなものを物色した。
 「あ、それはいいけど、そっちは駄目」
 ボクが気に入ったものは貸してくれない。長く女でいることになったら、自分のものを買うからいいやと、好美が貸してくれるものだけを袋に詰めた。
 「お姉ちゃん、携帯が鳴ってるよ」
 「ああ、誰かしら?」
 大竹だった。
 「もしもし? 今? 実家よ。今日はこっちに泊まるから。うん、また連絡して」
 携帯を切ると、好美がもう彼氏ができたの?と尋ねてきた。もちろん半信半疑の問いだろう。
 「彼氏じゃないわ」
 「じゃあ、何なの?」
 「そうね。女になっていることを確かめる道具かな?」
 「えっ! それって・・・」
 「好美、あなた、まだ処女なの?」
 好美は目を泳がせる。その様子からすると、どうやら処女ではないようだ。
 「女としてのセックス、凄く気に入ってるわ」
 「信じられない。女になって4日目だというのに」
 「時間なんて関係ないわ。男はね。女になることができたら、男とセックスしてみたいと思うものなの。お姉ちゃんの場合、たまたまあいつがそばにいたから、すぐにやることができた。そう言うこと」
 あきれ顔の好美を置いて、ボクは階段を下っていった。



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