第7章 ルームシェア


 それから数日後の3月30日、朝食が終わったあと、紗也伽が神妙な様子でボクの前に座った。
 「梓、あなたとは今日でお別れよ」
 「えっ! どうしてなの? わたしが嫌いになったの?」
 「そうじゃないの。梓のことは好きよ」
 「だったら、どうして?」
 「わたしが看護婦として働いている病院のドクターからプロポーズされたの。わたし、今年、30になるでしょう? 30になる前に結婚したかったの」
 看護婦だという話が本当だったとわかった。ボクは五つ年下だけど、上手くやっていける自信はあった。けれど、相手が医者となると、女装して主婦のようなことをやっていて職のないボクは、とても太刀打ちできない。
 「明日、ここを引き払って実家に帰るの。もっと前に告白するつもりだったのに、延び延びになってしまって。ごめんね。わたしを許して」
 「紗也伽が幸せになるんだもの。仕方がないわ」
 他にどう答えようがあるというのだろうか? 紗也伽はごめんね、ごめんねと繰り返し、そして唇を重ね、最後となる交合に雪崩れ込んだ。

 午後3時、紗也伽は部屋の片付けを始めていた。
 「わたしも手伝うわ」
 「梓は自分の荷物をまとめて。それから、6時に彼が来るの。だから・・」
 紗也伽は言い淀んだ。意味はその時間には居て欲しくない、それまでには出ていって欲しいと言うことだろう。
 「わかったわ。大急ぎで荷物をまとめて出て行くわ」
 「ごめんね。ホントに」
 「いいのよ」
 3ヶ月身に着けていないボクの男物を取り出す。それに着替えるつもりだ。紗也伽と別れるんだったら、もはや女装する必要はない。
 「女物、もういらないんだけど、どうしよう?」
 「わたしにはサイズが合わないから捨てるしかないでしょうね」
 ボクの持ち物より上等だから勿体ないような気がするけれど、ボクにとってはもはや無用のものだ。
 着替えようとしてスカートを脱いだとき、紗也伽の携帯が鳴った。
 「もしもし? ああ、純。梓? まだいるわよ。えっ? ああ、あのこと。聞いてないわ。無理だと思うから。わかったわ。一応聞いてみるわ。ちょっと待って。梓、ちょっと聞いて」
 何だろうかとボクはスカートを身体の前に当てて紗也伽に歩み寄った。
 「この電話、純からなんだけど、もし梓がよかったら、純のマンションに来ないかって言ってるわ」
 「えっ! どういうこと?」
 「わたしが結婚することになって、このマンションを引き払ってしばらく実家に戻ることを純にも話したの。そしたら、梓はどうするのって言うの。梓も自分の実家に戻るって言ったら、東京にいるつもりなら、純が一緒に暮らしてもいいっていうの。純は梓が男の子だってこと知らないでしょう? だから、無理だって言ったんだけど、梓のことが気に入ってるから、どうしても一緒に暮らしたいって言い張るのよ。仕方がないから、梓は男の子なのと告げたの。ところがね。構わないって言うの」
 「ホントに?」
 「ええ。ただね。女装したままがいいって言うの。だから、あなたに言い出せなくて」
 ボクが現在女装しているのは、紗也伽が男と暮らしていることを他人に知られないためだ。けれど、純のボクへの女装要求は少し意味合いが違うような気がする。
 「どうする? 純が返事を待ってるわ」
 このマンションを出て行く宛はまったくない。再びネットカフェか個室ビデオ暮らしになるだろう。女装を厭わなければ、快適な生活が待っているのだ。
 「わかったわ。純のマンションに行くわ」
 「純、喜ぶと思うわ。それに、わたしも梓を放り出すようで気まずかったから、少しは気が休まるわ」
 笑顔をボクに向けてから携帯に向かって話し始めた。
 「純? お待たせ。梓、いいって。そうよ。しっかり面倒を見てよ。わかったわ。すぐに行かせるわ」
 携帯を切ると、紗也伽はメモに純の住所を書き始めた。ボクは脱いだスカートを穿き直し、荷物の前に戻った。
 捨てようと考えていた女物が必要になった。
 (男物はどうしようか?)
 この先のことはわからない。必要になったとき、安物でもそれなりにお金が必要だ。少しでも節約するためには持って行くしかない。そう考え、バッグの底に詰めた。
 「これ、純の住所と電話番号。それに大まかな地図。わかる?」
 ボクは住所と地図を確かめ、大丈夫と頷いた。
 「じゃあ、紗也伽、今日までありがとう。あなたのことは忘れないわ」
 「わたしもよ。あ、それから、これは、少しだけどわたしからの餞別よ」
 紗也伽はボクに封筒を手渡した。現金が入っているようだ。
 「そんなこと、しなくても」
 「いいから、取って置いて」
 職場を解雇になったとき、ボクの預金通帳の残高は20万あまりだった。母に心配を掛けないようにと、月々3万円の仕送りは続けていた。だから今は8万弱しかない。餞別はありがたかった。
 紗也伽の頬にキスしてマンションをあとにした。

 純のマンションは紗也伽のマンションから電車で二駅目だからそれほど遠くはない。バス路線がわからなかったので、歩いていったら、駅からはかなり遠かった。
 純のマンションに着いたのは、午後5時過ぎだった。
 「はあい」
 チャイムを鳴らずと、聞き覚えのある可愛らしい声で返事があった。ガチャリとドアが開いて純が顔を出した。
 「来たのね? 梓」
 「ホントにいいんですか?」
 「いいから、来て貰ったんでしょう? さあ、入って」
 水色ボーダーのキャミソールに白のショートパンツ姿の純。お尻がプリンとして可愛いと思った。
 「梓、お料理が得意だって聞いたけど?」
 「得意ってことはないけど・・・」
 「夕食の下準備をしてるの。手伝ってくれる?」
 「いいわよ」
 バッグをリビングにおいてキッチンに行き、シチュー作りを手伝った。

 ボクが手伝わなくても美味しいビーフシチューができていた。テーブルで向かい合って食べる。
 「うん、柔らかい」
 「しっかり煮込んだからね。でもさあ、紗也伽からあなたは男の子だって聞かされたときホントビックリしたんだけど、男の子だってわかってても女の子に見えるんだから、すごいね」
 女装が完璧だと言われて、喜んでいいものか複雑な気持ちだ。
 「紗也伽、看護婦をやってたって言ってたけど、純さんも?」
 「ええ、そうよ」
 「夕方出掛けて、真夜中に帰ってくる看護婦なんてあるの?」
 「紗也伽の働いているクリニックは、夕方6時に開いて、午前2時までなの」
 「へえ、そんなクリニックがあるんですか?」
 「昼間働いていて病院に行けない人が多いでしょう? だから」
 「なるほど。純さんの働いているところは?」
 「純でいいわよ」
 「あ、はい」
 「わたしの働いているクリニックはまともなところよ。午前9時から午後5時半まで」
 まともと言う言葉に思わず微笑んだ。
 「何時に出て、何時に戻ってくるの?」
 「8時前に出て、6時半頃戻ってくるわ」
 至極まともだ。
 「じゃあ、7時半頃朝ご飯を作って、7時頃夕ご飯にすればいいわね?」
 「あら? 梓が食事を作るつもりなの?」
 「ええ。紗也伽のところでは、そうしてきたから」
 「食事作りは交代でやりましょう」
 「えっ! でも、それじゃ、悪いわ」
 「悪いわって、家賃も食費も入れて貰うんだから、折半が当然でしょう?」
 そんなことを考えていなかったから、ちょっと驚いた。
 「聞いてないの? 紗也伽から」
 「何も聞いてないわ」
 「家賃と食費として毎月5万入れて貰うって伝えてって言ってたのに」
 「毎月5万・・・」
 頭の中で計算する。ネットカフェあるいは個室ビデオに寝泊まりしても、食費をあわせて毎月5万ではすまないことはすぐにわかった。
 「紗也伽はあなたに主婦をさせていたようだけど、わたしは共同生活のつもりなの。だから、今度は働かないとね」
 「え、ええ」
 「女の方が時給は安いけど、仕事はあるのよね。だから、頑張って稼いでね」
 つまり女装して働けと言うことだ。以前ならそんなことをするなんて絶対にイヤだったけれど、今ならやれる。やれる自信がある。
 (明日は早速仕事を探さないと)
 「ところで、梓?」
 「なに?」
 「あなたと紗也伽、セックスとか、してたの?」
 「えっ? あのう・・・」
 ボクは下を向いた。
 「ふふふ。やっぱりそう言う関係だったのね。当然よね。女装していたって、梓は男なんだから」
 純はボクとどういう関係を築くつもりなんだろうかと上目遣いに見た。
 「紗也伽にしてきたようなことは期待しないでね」
 釘を刺されて少しガッカリした。紗也伽と暮らしたときよりもずいぶん条件が落ちてしまったなと思ったけれど、ホームレスやネット難民に比べれば、まだまだましだと考え直した。
 (だったら、何故ボクを呼び寄せたんだろう? 女装していてもボクは男なんだから、ルームシェアをする相手としては相応しくないと思うんだけど?)
 わからないなと考えながら、スプーンを口に運ぶ純を見ていた。

 片付けを終えてから11時までテレビを見たあと、交代で入浴した。純はオレンジ色のパジャマのようなものに着替えていた。ボクは紗也伽の趣味でネグリジェしか持っていなかった。だから、それに着替えた。
 「あら? 豊胸してるの?」
 「あ、これ? これは、シリコンの人工乳房よ」
 ボクはネグリジェの上から人工乳房を押さえた。
 「人工乳房なの? よくできてるわね」
 「ネグリジェ越しだから」
 ストラップを肩から外して、接着している人工乳房を見せた。
 「あ、ホント。直接見ると、やっぱり作り物なんだね」
 ボクに近寄ってきて、人工乳房を触った。
 「じゃあ、もう休みましょうか?」
 ベッドルームに入っていくと、そこにはダブルベッドしかなかった。
 「どうするの? わたし、ソファーで寝ましょうか?」
 「いいの。一緒にベッドで寝ていいわ。ただし、わたしには手を出さないでね」
 そう言われて、ベッドに入った。女装していてもボクは男で、同じベッドの中に女である純が居る。股間がずきずきするのを押さえるのに大きなパワーを要した。

 純のことが気になって気になって、午前3時過ぎまで寝つかれなかった。目を覚ましたとき、純がキッチンで朝食を作っていた。
 「あ、ごめんなさい。寝坊しちゃって」
 「いいのよ。今日はわたしが作ったから、明日は梓が作るのよ」
 「わかったわ」
 純はテーブルの上にトーストと卵料理を並べていった。洋食は久しぶりだ。
 (朝ご飯は、やっぱりご飯に味噌汁の方がいいな)
 洋食は味気ないと感じたのだ。
 「昨日はよく我慢したわね?」
 「ええ。自分でもよく我慢できたものだと思うわ」
 「もしわたしを襲ったら、追い出すつもりだったの。合格よ。ずっと一緒に暮らしましょう」
 我慢してよかったと思った。

 純が仕事に出掛けていったあと、仕事探しに出た。
 「9時から5時まで? 今どきそんなことを言っていたら、仕事なんてないよ」
 夕方から夜に掛けての仕事ならあると言うけれど、純との兼ね合いを考えると無理だった。
 結局仕事は見つけられずに純のマンションに戻った。

 夕食はボクが作ることになっていた。飯が炊け、料理の仕上げをしていると純が戻ってきた。
 「仕事、見つかった?」
 ボクは首を横に振った。
 「明日も探しに行くわ」
 「そのうちに見つかるわよ」
 そのうちじゃ困るのだ。紗也伽に貰った封筒には10万が入っていたけれど、実家への仕送りを考えると、ふた月しかもたないのだ。
 「5万円を免除してあげてもいいけど」
 夕食を食べながら純が言い出した。
 「ただし、条件があるけどね」
 ボクは興味津々で、どんな条件なのと訪ねた。
 「わたしの言うことを何でも聞くって約束して。そうしたら、ただでここにいさせて上げる」
 「そんな簡単なことなら、構わないわ」
 ボクは簡単に答えた。
 「じゃ、指切りよ」
 差し出された純の小指に、ボクの小指を絡ませた。
 「早速だけど、ウイッグの下の髪はどうなってるの?」
 「ああ、まとめてネットを被せてあるわ」
 「伸ばしてるのね?」
 「ええ。ウイッグは頭が蒸れるから。地毛にしようと思って」
 「どれくらい伸びているか見せて」
 食事を終えると、ウイッグを取り、ネットを外してブラッシングした。
 「なるほど、なるほど。これくらいあれば大丈夫ね。まずは真ん中で分けましょう」
 霧吹きでボクの髪を濡らすと、櫛を使って真ん中で分け、カーラーを巻いた。食器を洗うなどして時間を待ったあと、カーラーを外すとボクの髪は真ん中分けの癖が付いていた。
 左右の長さを同じくらいに切り揃えたあと、純は明日美容室に行ってきなさいとボクに命じた。
 「次はあ」
 悪戯っ子が、次の悪戯を考えるような表情だ。それから思いついたようにベッドルームに行き、ハンガーを持って戻ってきた。
 「それは・・・」
 「梓、着たことがないでしょう? さあ、着てみて」
 ボクは着ていたものを脱いで、ハンガーに掛かっていた服・セーラー服に着替えた。胸が少しだぶつくけれど、ほぼピッタリだ。
 「結構似合うじゃない?」
 鏡の前に引っ張って行かれた。鏡に映ったボクは、少し年の行ったタレントがセーラー服を着たようだ。
 「じゃあ、お茶でもしに行きましょう」
 「このままで?」
 純はもちろんよと微笑んだ。
 「と、とんでもないわ」
 「駄目! わたしの言うことを聞くって約束よ。さあ、出掛けましょう」
 高校生が持つようなトートバッグを持たされ、外に連れ出された。恥ずかしくて上を向けない。けれども、夜道なので、ボクに注目する人はほとんどいなかった。
 喫茶店に着いた。純のマンションからそれほど遠くない店だ。
 「いらっしゃいませ。あら? お久しぶりね」
 中年の女性がにこやかに迎えてくれる。純はこの店の馴染みらしい。純はミルクティーをふたつ注文すると、奥の席にボクを引っ張っていった。
 「あら? 高校生じゃないのね?」
 お冷やとおしぼりを置きながら店主らしい女性が言った。
 「ふふふ。やっぱりばれちゃいましたね。今度わたしと同居することになった梓です」
 ボクはよろしくお願いしますと頭を下げた。
 「荷物を整理していて、わたしが高校時代に来ていたセーラー服を見つけ出したんです。梓、高校時代はセーラー服じゃなかったから是非着てみたいって言い出して、こうして着てみてるんですよ」
 女店主はなるほどと納得してくれた。高校時代のボクは確かにセーラー服じゃなかった。セーラー服じゃなくて学生服を着ていたよなと純の顔を見ながら思っていた。
 店内に流れるジャズピアノを聞きながら、ゆったりとミルクティーを飲み、30分ほどしてマンションに戻った。
 「ああ、恥ずかしかった。もう脱いでいいでしょう?」
 「だめだめ。手を後ろに回して」
 純が細いヒモを持ってボクに命じた。



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