第22章 もうひとつの結末


 部屋に入ると、兄はボクを抱き寄せてキスした。兄とこんなふうになってから一番激しいキスだ。舌を絡め合い、長くキスした。
 兄はすぐにでもベッドインしたがっていた。
 「シャワーをしましょうよ。汗掻いてるから」
 「そうだな。・・一緒に入るか?」
 御勝手にと言い、ボクは着ていたものを脱いでバズルームに入った。すぐに裸になった兄が入ってきた。
 シャワーを浴び始めたボクを兄が後ろから抱きしめてきた。堅く勃起したペニスをヒップに感じる。ボクの身体にも同じものがあったけれど、今はもう欲しいとは思わない。入れて欲しいだけだ。
 向きを変えてキスする。頭からシャワーを浴びながら、兄はボクの身体を愛撫する。
 「少し垂れたな?」
 「2人に吸われちゃったからね」
 まことしやかに嘘を言える自分が恐い。
 「揉んで大きくしよう」
 今更大きくはならないよと思ったけれど、ウフンと頷いておいた。兄に背中を向ける格好にされ、後ろから乳房を揉まれた。兄の右手がボクの秘部をなぞる。ゾクゾクしてきた。
 シャワーが止められ、兄の両手が降りていって腰のあたりを掴んだ。どうやら挿入を望んでいるようだ。ボクは両足を開いて腰を少し突き出した。
 宛がわれ挿入される。まだ充分濡れていない。だから痛いし、なかなか入らない。それでも次第に進んできて、やがて兄のすべてがボクの中に収まった。
 ゆっくりとした抽送が始まった。
 「いいわ、あなた」
 すぐに濡れてきて、抽送が容易になっていた。
 (男だったのに、こんなに濡れるなんて。長谷川先生、上手なんだな)
 思いながら、突き上げられて喘いだ。

 まだまだ楽しみたいらしく、兄は射精することなくベッドに行こうとボクに告げた。身体をさっと拭いて、手をつないでベッドに移動した。
 兄を押し倒してフェラチオを始める。
 「今日は積極的だな」
 「家ではこんなにはできないでしょう?」
 「それはそうだ。おおっ!」
 兄のペニスがピクピク震える。ボクの会得している技術をすべて使って舐め上げ、しゃぶった。
 「あ、梓。で、出てしまう!」
 ボクは止めない。口の中に収めて頭を前後に振り、根本をしごき続けた。
 「あ、うっ、うっ、ううっ!」
 ドバッと口の中に吐き出されてきた。零さないようにすべてを飲み込んでやった。
 「梓。飲んでくれたのか?」
 「ええ。悪かった?」
 「あ、いや。初めて飲んでくれたから」
 嬉しそうな笑顔を向けてきた。梓に言ったら、怒られるかもしれないと思った。
 「ひと休みしないとやれないぞ」
 「時間はあるでしょう?」
 時計はまだ10時前だ。
 「ああ、たっぷりある。明日は土曜日だし」
 「えっ? 今晩はここに泊まるの?」
 「当たり前だろう? ラブホテルの休憩じゃないんだぜ」
 「だったら、クリスマスプレゼントを子どもたちの部屋に置くのはどうするの?」
 忘れていたようだ。
 「お袋に電話を掛ければいいさ」
 「わたしからは頼みにくいわ。あなたから頼んでよ」
 「わかったよ」
 ザーメンを飲んでやったからか、機嫌良く電話を掛け始めた。
 「あ、母さん? 俺だけど、子どもたちが寝たら、プレゼントを部屋に置いておいてくれないか? どこにあるかって?」
 「応接間のタンスの上よ」
 「応接間のタンスの上だって。頼んだよ。わかったよ。明日はできるだけ早く帰るよ」
 兄はべえと舌を出した。
 「ったく。たまには夫婦でゆっくりさせろよな」
 ブラブラさせながらボクのそばに戻ってきた。ボクはニッと笑って、それにしゃぶり付いた。
 「お、おい。まだ無理だよ」
 「わかってるわ。柔らかいのを舐めるのも面白いわ」
 絶対に梓に怒られると思いながら、舐め続けた。やがて少しずつ硬度を増してきた。無理かなと思ったけれど、兄に跨ってボクの中に導いた。
 「ホント、今日の梓は別人だね」
 「うふふ」
 折れないようにゆっくりと腰を動かす。そんなに硬くなくても快感はある。兄の表情を窺いながら腰を動かした。

 完全に復活した兄は、起き上がって座位になったり、バックになったり、バスルームの中でのように立位なったり、ともかく1時間あまりボクを突き続け、11時過ぎにようやく果てた。
 「はあ、疲れた」
 兄はベッドの上にばったりと倒れ込んだ。ボクはと言えば、ものも言えずただ荒い息をしていた。

 午前6時、再び兄が挑んできた。もちろん応じた。セックスは何回やっても気持ちがいい。気持ちよすぎる。

 午前7時半、シャワーを浴び、モーニングを取ってから家に戻った。腰が抜けそうに怠い。
 「昭彦も梓さんも楽しんだみたいね?」
 母が冷やかすように言った。その機嫌の良さは、母も父と楽しんだに違いないと感じた。父も母もまだ50代だ。枯れる年ではない。
 子どもたちがプレゼントを手に降りてきた。翔太はWiiのゲームソフト、澪はプリキュア変身セットだ。サンタさんが来たと言って喜んでいる。いつまでサンタを信じるのだろうかと思う。

 主婦業を熟したあと、澪を連れて公園へ散歩に行った。遊具で遊んでいる澪を見ながら、日向ぼっこしていると携帯が鳴った。梓からだった。
 《茜さん、そっちの様子はどう?》
 「別に変わりないわよ」
 《子どもたちの様子は?》
 何があろうとも自分の産んだ子どものことは気になるものだろう。
 「うん。プレゼント、すっごく喜んでいたわ」
 《よかった。茜さん、昨日の夜はどうしたの?》
 「どうしたって、家にいたわよ」
 兄とホテルでクリスマスディナーを取り、そのままホテルに泊まったなんて、とても言えなかった。
 《あれ? おかしいな。ホテルを予約していたみたいなんだけど?》
 「何だ。知ってたの?」
 《やっぱりね。ホテルに行ってたんだ》
 ボクは舌打ちをした。どうやら鎌を掛けられたようだ。
 「ディナーを食べただけよ」
 《茜さんは嘘が下手ね。主人に抱かれて満足したって声よ》
 「そんなこと、ないわよ!」
 声が大きくなって、周りの人たちがボクの方を見た。慌てて声を落とした。
 《ふふふ。まあ、いいわ。主人に抱かれてもいいってわたしが言ったんだから》
 「あなたの方はどうだったの?」
 梓さんの方はとは言えない。周りにご近所の奥さんたちが聞き耳を立てているからだ。今までの会話では、友達と話をしているように聞こえるはずだ。
 《うーん。最高の夜だったわ。今日まで生きてきたのは、このためにあったんだって感じ》
 「そんなこと言ってもいいの?」
 兄に失礼だと思った。
 《もちろん、主人とセックスしたときだって、いつもそう思うわよ。でもね。今が最高だって思う方がいいじゃない? 過去の方がいいと思うと、今に幻滅してしまうもの》
 なるほどなと思う。常に現在が一番いいと思うことは、悪くないと感じた。ならば、浮気などしなければいいのにとも思った。
 「予定通り戻ってくるのね?」
 《そのつもりよ。30日の夕方、予定通りに。主人のこと、頼んだわよ。梓として愛してやってね》
 「わかったわ」
 《子どもたちは元気にしてる?》
 「ええ、とっても元気よ」
 《子どもたちも頼んだわね》
 もちろんよと答えてから、妙な言い方だと感じた。
 「ちょっと聞きたいことがあるの。ちょっと待って」
 他人に聞かれないように少し離れた場所に移動した。
 「梓さん、こっちに戻ってくる気があるの?」
 戻ってきたのは沈黙だった。
 「まさか、わたしに身代わりを頼んで、いなくなるつもりじゃないでしょうね?」
 沈黙は続く。
 「返事をして!」
 《子どもたちと夫を頼むわ》
 「どう言うことなの? 滝沢さんと一緒になるってことなの?」
 またも沈黙。この沈黙は、滝沢と一緒になることを示しているとは思えなかった。滝沢と一緒にはならず、子どもたちと兄をボクに頼むと言うことから得られる結論はひとつしかない。
 「梓さん、あなた、義彦さんの元に行くつもりじゃないわね?」
 《滝沢に聞いたのね?》
 「どうなの?」
 《義彦はわたしの命。義彦の居ない世界なんて生きる意味がないわ》
 滝沢の話は本当だった。梓の思いが胸に突き刺さる。
 《義彦が遺骨となって戻ってきたとき、わたしも死んでしまいたかった。でも、澪や翔太を置いては死ねなかった》
 「わたしに澪や翔太の世話をさせるつもりなの? まっぴらご免だわ」
 《そんなことはないわ。茜さんは優しい人。わたしが死んだら、ふたりの面倒を見てくれるわ》
 「死ぬなんて駄目よ。そんなことを義彦さんは望んでいないわ。あなたが死んだら義彦さんが悲しむわ」
 《死んでしまったひとが悲しむものですか。わたしを置いて勝手に死んでしまって》
 嗚咽が聞こえてきた。
 《澪と翔太を頼んだわよ》
 このままでは梓は死んでしまう。
 「待って! 義彦さんは生きてるわ」
 《そんな嘘を言って止めようと考えても無駄よ》
 「本当よ。茜さん、義彦さんの遺骨と共に送られてきた遺品を見たでしょう?」
 《見たわ》
 「何かがなかったことに気づかなかったの?」
 沈黙。考えているのだろう。
 「あなたが、東京に出て行く義彦さんに送ったものよ」
 《お守り・・・》
 「そうよ。そのお守り、遺品の中にあった?」
 《・・なかったわ》
 「義彦さんは、あのお守りを肌身離さず持っていたのよ。今も持っているわ」
 《じゃあ、あの遺骨は誰のものなの?》
 「赤の他人のものよ。ある事情があって姿を隠さなければならなくなって、死んだひとと入れ替わったの」
 《赤の他人の遺骨・・・。茜さん、もしそれが本当なら、どうしてあなたがそれを知ってるの?》
 言葉に詰まった。
 《口から出任せね》
 「違うの。違うのよ」
 《じゃあ、どうしてなの?》
 「義彦さん、わたしと一時期一緒にいたの」
 こう説明するしかない。
 「義彦さんも梓さんのことが好きだたったでしょう? わたし、梓さんにそっくりだから、間違えて声を掛けてきたの。それでいろいろと話してくれたの」
 しばしの沈黙の後、梓が切り出した。
 《義彦が生きているのなら、どこにいるの? すぐに会わせて。そうじゃないと茜さんの話は信じられないわ》
 会わせられない。会えない。ボクはもはや義彦ではなくなっている。
 《やっぱり義彦は死んでるのね?》
 「生きてるわ」
 《じゃあ、会わせて》
 「会えないわ。死んだことになってるんだもの」
 《じゃあ、生きてる証拠を見せて》
 その証拠がひとつだけある。けれどそれを示せば、ボクが義彦だと言うことがわかってしまうだろう。
 《義彦は生きてないのね?》
 電話が切れたら終わりだ。ボクは決断した。
 「ちょっと待って。メールを送るから。それを見てからにして」
 いったん電話を切り、ボクは一枚の写真を梓に送った。すぐに電話が掛かってきた。
 《肌身離さずに持っているはずのお守りをどうしてあなたが持ってるの?》
 今度はボクが沈黙する番だった。
 「・・義彦さんがわたしにくれたのよ」
 《さっき茜さんは、義彦が今もそのお守りを待ってるって言ったわ》
 矛盾に気づかなかった。もう言い訳できそうもない。
 「その通りよ。義彦は今もこのお守りを大切に持ってるわ」
 《どう言うことなの? 義彦がお守りを持っているって言ってるのに、持っているのは茜さ・・・》
 気づいたようだ。
 《ホントにホントなの?》
 「・・・ホントよ」
 《どうして? 女になりたかったわけじゃないでしょう?》
 「そこのところは聞かないで。誰にも、梓にだって言いたくないの」
 《わかったわ。でも、どうしてわたしそっくりに?》
 「顔も変えなきゃいけなくなったとき、梓の顔しか思い浮かばなかったの」
 《ホントに義彦なのね?》
 「うん」
 《ホントにホントね? 嘘じゃないわね?》
 「嘘じゃないわ。だから戻ってきて」
 《わかったわ。すぐに戻るから》
 「30日じゃなかったの?」
 《茜が義彦だって確かめたいの。一刻も早く》
 愛してるわと梓は言い、携帯が切れた。女になっても愛してくれてるんだと思うと嬉しくて涙が出た。

 県立病院の駐車場に停めてある車の中で梓はボクの顔を見つめていた。
 「ホントに義彦なのね?」
 ボクは頷き、持っていたお守りを梓に手渡した。
 「中を見なかったの?」
 「見てないけど?」
 「馬鹿ね。開けてみて」
 お守りの中には茶色に変色した一葉の紙切れが入っていた。その紙切れには、義彦だけを愛している・梓と書かれていた。
 「これを見ていれば、首になったとき戻ってきていたのに・・・」
 後悔が渦巻く。涙で梓の顔が見えなくなる。
 「義彦、愛してるわ」
 ボクに抱きついて唇を重ねてきた。
 「女になってしまったのに?」
 「義彦、こうなっていなくたって、一緒になれなかったんだし、諦めが付くというものでしょう?」
 「そう、そうだね」
 「もしかして、わたしそっくりに身体中を整形したのはわたしと滝沢の関係を止めようとしてなの?」
 「そうだよ」
 それだけではなかったような気もするけれど、そう答えておいた。
 「そのためとは言え、兄弟で関係を持たせたなんて」
 「男と女じゃないんだから、心配しないでいいよ。梓、もう死にたいなんて言わないよね?」
 「わたし、もう死のうなんて思わないわ。義彦が生きていてくれればいいの」
 「わたしを、ボクを愛してくれるのはいいけど、兄を愛してやってよ」
 「わかってるわよ。義彦への愛とあの人への愛は違うの。そこのところは弁えてるわ」
 「よかった。遅くなるよ。この辺で別れよう」
 「ずっと一緒にいたいけど、仕方がないわね。わたし、このまま東京へ戻るから」
 「えっ!? どうして?」
 「茜としてね」
 悪戯を計画したときに見せる笑みを浮かべた。
 「29日か30日に滝沢に電話を入れて、ずっと滝沢と居たいから茜さんを説得してって頼むの。もちろんわたしは最初は断るわ。でも、ついには説得に応じて入れ替わることにするの」
 「つまり、わたしが梓として滝沢の元に行くってこと?」
 「そう言うことよ」
 「アイデアとしてはいいけど、わたしの振りをするのは無理じゃない?」
 「どうして?」
 「だって・・・、梓はフェラが下手でしょう?」
 「男のくせにフェラチオが上手いだなんて」
 「男だったから上手いんでしょう?」
 ボクはニッと笑って、ボクのやり方を梓に伝授した。

 29日、ボクは梓の指示通り滝沢に電話を入れた。
 「修ちゃん、どうしてる?」
 《別に》
 「何い? わたしが居なくて寂しいって言ってくれないのお?」
 《寂しいさ。明日までいるって言ってたのに、急に戻ってしまうんだから》
 「ごめんね。修ちゃんと短期間じゃなくてずっと一緒にいたくなって、茜さんを説得しようと考えてこの前こちらに戻ってきたの」
 《ボクとずっと一緒に?》
 「そうよ」
 《本気なのか?》
 「本気よ」
 《しかし、茜が納得しないだろう? 舅、姑、こぶつきなんてイヤだって言ってたぞ》
 「修ちゃん、茜さんが精神病院に入院していたことは知ってる?」
 死んだ茜が精神病院に入院していたことは動かしがたい事実だ。
 《えっ!? ホントなのか?》
 「今は治っていて再発の心配はないらしいんだけど、精神病院に入院していたって言う病歴があると、なかなか結婚相手が見つからないのね」
 《茜は納得してくれたのか?》
 「引き受けてくれてたら、今頃わたしは修ちゃんのそばよ」
 《そうか》
 「茜さん、わたしの身代わりを引き受けてくれそうなんだけど、迷っているみたいなの。だから、修ちゃん、あなたからもプッシュしてよ。お願い」
 《わかった。やってみる》
 電話を切った後、上手くやってくれるかなと期待半分不安半分で連絡を待った。

 30日、早く連絡がこないかなと考えながらテレビを見ていた。
 《○沢首相の支持率は、内閣発足以来最低となり、辞任、衆議院早期解散が囁かれ始めております。
 次のニュース。インターネット上に猥褻な画像や動画を乗せ、不法な利益を得たとして指名手配されていた横山文規容疑者が、逃亡先のフィリピンのホテルで、短銃で撃たれて死亡しているのが発見されました。フィリピン警察は、強盗による犯行との公式見解を発表しております。
 今入ったニュースです。今日未明、東京でマンション火災があり、男女ふたりの遺体が発見されました。警察と消防は、出火原因と2人の身元確認を行っておりますが、今のところ出火原因も身元も不明です。
 このあとコマーシャルを挟んで、元日のサッカー天皇杯の予想についてお送りいたします》

 横山文規とは、あの横山のことだ。横山が死んだ。罰が下されたのだ。あんな酷いことを続けて、いい死に方をするはずがない。それが正義というものだ。
 (紗也伽や純はどうなっただろうか?)
 そう思うけれど、もはやボクには関係のないことだ。過去のことは忘れて、今を生きよう。梓が言ったように。

 年が開け、3日になった。なかなか連絡がない。年末に報道されていたマンション火事で死んだのは梓と滝沢ではないかと心配になった。
 そんな矢先、梓から連絡が入った。
 《梓さん、あなたの提案を受け入れるわ。明日滝沢と一緒に行くから入れ替わって》
 「わかったわ。待ってるわ」
 滝沢を連れてくることは25日に梓と別れるときに申し合わせていた。目の前で入れ替わった方がいいだろうと梓が言ったからだ。
 そして1月4日、いつものように県立病院の駐車場でボクたちは入れ替わった。
 「茜さん、子どもたちのこと、頼んだわよ」
 梓は仕方ないわねとやや不満そうな表情を見せてボクと滝沢に手を振った。梓もなかなかの役者だ。

 ボクは茜と入れ替わった梓として、滝沢と結婚した。名前は茜だから複雑だ。フェラチオはできるだけ断り、どうしてもと言うときはぎこちなくやってあげた。
 滝沢はボクを梓だと信じて疑わない。それはいいのだけれど、滝沢を騙しているという後ろめたさもあるし、ボクがボクでなく梓として滝沢に愛されていることに一抹の寂しさを感じる。
 でも、梓のためだから我慢するしかないのだ。

 1年がたったある日、梓から電話が入った。
 《義彦、元気にしてる?》
 「その名前は禁句よ」
 《そうだったわね》
 「ずいぶん連絡がなかったけど、病気でもしてたんじゃないの?」
 《病気じゃないわ。妊娠してね》
 「ほんとに? いつ生まれるの?」
 《もう生まれたの》
 「えっ!? そうなの? どっちだったの?」
 《女の子よ》
 「おめでとう。よかったわ。名前は何てつけたの?」
 《もちろん、茜よ》
 「いい名前だわ」
 お互いにふふふと笑った。
 《茜、幸せにしてる?》
 「ええ。あの人が大事にしてくれてるから」
 《あなたが幸せなら、わたしも幸せよ》
 《うふふ。じゃあ、また電話するね》
 「うん。またね」
 電話を切って振り向くと、滝沢が立っていた。
 「誰からの電話だ?」
 「あ、梓から」
 ひとつ嘘をつくと、次から次へと嘘をつかなければならなくなる。隠したいけれど、ここは正直に答えた。
 「何の電話だったんだ?」
 「子どもが生まれたんだって」
 「そうか。梓に子どもができたか。・・・・お前にも子どもを生めたらな」
 「えっ!?」
 滝沢の言葉に驚いて見つめると、気まずそうな表情を見せた。
 「あなた、もしかして・・・」
 「失言だったな」
 ソファーに座ってため息をついた。
 「知ってたの? わたしが梓じゃないってことを」
 「ああ。最初からな。梓がお前のふりをするなんて、土台無理だったんだよ」
 「わたしが子どもを生めないことの理由も?」
 「梓から聞いて知ってたよ」
 金槌で頭を殴られた気分だ。
 「知ってて、どうして?」
 「梓に頼まれたんだよ。おまえを梓として愛してくれってね」
 滝沢はボクの顔をジッと見た。ボクも滝沢を見返す。
 「前も言ったと思うが、梓にとって義彦は命だった。義彦が死んだとき、後追い自殺をしなかったのは、子どもがいたためだ。その子どもたちの面倒をお前に託して死のうと考えていたらしい。梓に頼まれれば、梓の命を奪うことも辞さなかったな」
 滝沢は自嘲気味に笑った。
 「梓が自殺を思いとどまったのは、義彦が生きていたからだ。つまりおまえだ。まあ、梓はお前のことを本当に義彦だと信じていたわけではないようだがな」
 「はあ?」
 「義彦が肌身話さず持っていた御守にしても、子どものころの二人だけしか知らないことにしても、義彦がお前にお守りを渡し、身の上話をしたとも考えられるからな」
 「だったら、梓はどうしてわたしが義彦だと信じたふりをしていたの?」
 「それは、おまえが義彦であるかどうかに関わらず、義彦が生きていると信じることで梓に生きる希望を与えたからだ」
 完全に騙されていた。
 「本当のところを言えば、梓を帰したくはなかった。梓を殺してでも手に入れたかったが、泣いて頼む梓にそんなことはできなかった。わたしは梓の願いを聞き入れて、おまえを梓として受け入れることにしたんだ」
 「わたしが義彦だと分かっていても?」
 「その目でじっくり観察しても、おまえが男だった痕跡は微塵もない。だから、おまえが性転換して女になった義彦という話は最初は嘘だと思った」
 「今はわたしが義彦だと?」
 「義彦でなければ、梓そっくりに整形する理由がないし、梓の浮気を止めるために俺を誘惑しないだろう」
 「それにわたしは決して妊娠しない」
 「ああ。それも大きな理由だ」
 「それでもいいの?」
 「人妻を愛した罰だと思って甘んじて受けるつもりだ」
 「ごめんなさいね」
 「いいんだ。茜」
 滝沢はボクの横に座りなおしてボクの肩を抱いた。
 「今こそ言おう。茜。わたしはお前を愛しているんだ。心から」
 「ほんとに? 梓じゃないのに? ほんとの女じゃないのに?」
 「茜、お前は立派な女だよ。間違いなく」
 唇が重ねられてきた。
 (ああ、ボクは梓としてではなく、茜として愛されてるんだ)
 もしかすると滝沢の言葉は嘘なのかもしれない。でも、ボクも信じようと思う。梓がボクを義彦だと信じたように。
 ボクが義彦であったように、滝沢のボクに対する愛も真実だろうから。

 男なのに男たちに犯された屈辱の日々、信じていた紗也伽や純もまたボクを欺いていたという事実、女になる課程をネットに流され、自殺を図ったことが走馬燈のように蘇る。
 それとともに、生きていればきっといいこともあると言った長谷川の言葉が脳裏に蘇ってきた。信じてよかったと感じた。
 この先何があっても、しっかりと生きようと思う。必ず道は開けるのだから。



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