第16章 梓としての一日


 トイレの個室に入って鍵を掛けると、梓はすぐに着ていたものを脱ぎ始めた。
 「茜さんも早く脱いで」
 梓はワンピースを脱ぎ、ボクはキャミソールとスカートを脱いだ。梓のワンピースを着ようとすると、梓が待ったを掛けた。
 「下着も取り替えなきゃ」
 「えっ! 下着も?」
 「当たり前でしょう? 見覚えのない下着を着ているのを見つけられたら、入れ替わっていることを疑われるよりも、浮気していることを疑われるわ。そうでしょう?」
 そう言い、パンストを脱ぎ、ブラジャーを外していく。
 「早く、早く」
 目の前で全裸になっていく梓を見ながら、ボクはもう興奮状態だ。絶対に見ることはないと思っていた梓の裸が目の前にあるのだ。クリトリスは勃起し、濡れていた。
 ボーッとしながらボクも裸になり、梓から受け取った下着を身に着けていった。
 「サイズも同じでよかったわ」
 梓はそう言ったけれど、ウエストが少しきつい。梓の方がやや細いようだ。
 「アイシャドーだけ変えればいいわね」
 ハンドバッグから取りだしたグリーンのアイシャドーをボクに施した。
 「これでいいわ。梓さん。あなた、ホント美人ね」
 茜さんもとボクは答え、フフフと笑いあった。梓は、入れ替わるためにヘヤースタイルばかりでなく、眉もボクと同じに変えてきていた。だから、化粧を少し変えるだけでよかった。用意周到と言ったところだ。

 持ち物をすべて取り替え、ボクは呼び寄せたタクシーで羽田へと向かった。梓は滝沢の元に走ったことだろう。
 (梓の浮気の手伝いをするなんて・・・・)
 梓の夫に悪いなと思いながらも、梓の要求を拒否できない。
 (ああ、興奮が収まらない)
 なにしろ、梓が身に着けていた下着を、今はボクが身に着けているのだ。濡れて、濡れて気持ちが悪かった。

 チェックインする。こうして羽田から飛行機に乗るのは2年ぶりだ。2年ぶりだけど、姿はすっかり変わってしまった。女に、そして初恋の人・梓に。

 大分空港からはホーバークラフトもあるけれど、梓に言われた通りに空港バスに乗った。ホーバークラフトに乗れば25分で大分に着く。けれどできるだけ遅くに着いた方がばれにくいと考えたのだ。
 大分駅からタクシーではなく、バスに乗った。これも到着時間を遅くするためだ。そしてバス停から、歩いて梓の家に向かった。
 改めて地図を確かめることもなく、梓の嫁ぎ先に着いた。表札が出ている。白地に黒字で『加藤』と書かれた表札だ。そう。この家は、梓の嫁ぎ先であると同時にボクの実家でもあるのだ。
 梓の夫はボクの兄だ。ボクは兄の妻が浮気するのを手伝っているのだ。こんな事ができるのは、ボクにとって兄よりも梓の存在の方が大きいからだ。
 イヤ、ボクから梓を奪い取った兄への復讐の意味合いがあるのかもしれない。
 「ただいま」
 返事がない。荷物を抱えてリビングに行くと、父と兄が焼酎らしい水割りを飲みながらテレビを見ていた。
 「おう、帰ったか」
 兄はボクの方を一瞥してから、視線をテレビに戻した。父はチラッとボクを見ただけだ。これではばれる気遣いはない。
 「あら? 梓さん、お帰り。遅かったのね?」
 母がキッチンの方から顔を覗かせた。
 「遅くなって申し訳ありません。これ、お土産です」
 梓に託されていた人形焼きの包みを差し出す。
 「あら、これ、大好きなの、ありがとう」
 笑顔は向けてきたけれど、何となく言葉に刺がある。
 「着替えてきます」
 そう言い残して階段を上がった。
 (ふう。何とかなったけど、こういう雰囲気なんだな)
 こうして梓として存在していると、ボクがボクであったときには感じなかったものを感じた。それは、よそよそしさだ。
 (梓だけがこの家では他人なんだよな)
 階段を上り、入ったことのない兄夫婦の部屋に入った。何がどこにあるかわからないところだけど、そこは梓は周到だ。今着ているものをどこに戻し、何をどこから取り出して着替えるかきちんと教えてくれていた。
 ワンピースを脱いでハンガーに掛けてクローゼットに戻す。タンスを引いて、部屋着用のトレーナーを取り出して着替えた。
 (梓はいつもなこんなダサイ格好をしてるんだ)
 可哀想になる。脱いだパンストと新しい下着を持って階下に降りていった。
 「お義母さん、お風呂に入りました?」
 「わたしはあとでいいわ。先に入って」
 「じゃあ、お先に」
 こんな細かい会話は、ボク自身が聞いていたから知っているのだ。サニタリールームで化粧を落として着ているものを脱ぐ。ブラとパンストはネットの中に入れて洗濯機へ。
 シャワーキャップを被って浴室に入る。中に置かれているシャンプーやボディーソープはタイムスリップしたように以前とまったく変わっていない。
 身体を洗って湯船に浸かる頃には、ボクに戻ったような気がしていた。けれど、浴室を出て鏡を見たとたん現実に戻った。
 (ボクは女になって小川茜を名乗り、今日は梓の身代わりをしていたんだ)
 身体を拭いて新しい下着を身につけた。普段ボクが身につけている下着よりもずいぶん高級品だ。普段トレーナーなどを着ている分、下着だけでも高級品をと言ったところかもしれない。
 パジャマではなく先ほど着ていたトレーナーを着る。主婦としての仕事がまだ残っている。朝食の下準備が必要なのだ。
 「お義母さん、お米、何合研ぎましょうか?」
 「いつもと同じでいいわよ」
 これが困るのだ。
 「3合でいいんじゃないですか?」
 ボクが帰省したときは4合炊いていたから、それから逆算したのだ。
 「3合じゃ足りないわよ。やっぱり3合半よ」
 「わかりました」
 米を研いで炊飯器にセットし、冷蔵庫の中を点検しておく。
 (明日の味噌汁の具は・・・・)
 考えていると泣き声が聞こえてきた。
 「梓さん、澪が泣いてるわよ」
 「は、はい」
 ボクは階段を駆け上がっていった。泣き声は兄夫婦の向かいの部屋、以前はボクの部屋だったところから聞こえてきた。
 ドアを開くと、布団の上で可愛らしい女の子が泣いていた。ボクがこの子を最後に見たのは2年前のことだった。今はちょうど3歳になるはずだ。
 「澪」
 抱き上げると、ママと言ってボクにしがみつき、ボクの胸に顔を埋めた。
 「よしよし」
 しばらく抱いてあやしていると、スヤスヤと眠ってしまった。布団に戻し、しばらく一緒に寝てやる。もはや起きないと判断してから布団から離れた。
 (子供を騙せれば大丈夫だけど、今は寝とぼけていたからなあ。明日の朝が問題だな)
 澪と澪の向こう側に寝ている翔太の顔を見ながら思っていた。

 階段を下りようとすると兄が上ってきた。
 「先に寝るぞ」
 「お休み」
 階段を下りながら、これで迫ってくることはないなとホッとしていた。父も部屋に戻っているようだ。母は入浴中だった。ボクはテーブルの上に乱雑に残されたコップなどをシンクに運んで洗っておいた。
 お茶の準備をして待っていると母が入浴を終えて出てきた。お茶を入れて差し出すと、アラッと言うような表情を見せた。これはボク自身が実家に戻っていたときにしていたことだ。梓はやらないことだろう。ちょっと失敗したかなと思いながら自分のお茶を飲んだ。
 帰省したとき、ボクは結構母と話をしていた。けれど、今は嫁の梓としてここにいる。どんな話をしていいのかわからない。気まずいような時間が過ぎ去っていった。
 「そろそろ寝ますね」
 母が膝に手をやり、よっこらしょと立ち上がった。
 「片付けておきますから」
 そう言うと、母はありがとうと言い残して居室へ消えていった。ボクは湯飲みを洗って棚に収め、火の元と戸締まりを確かめてから電気を消して二階に上がった。
 兄夫婦の部屋を開ける。アルコール臭い匂いが立ちこめていた。兄は鼾を掻いて眠っている。
 (夫婦生活はどうなってるんだろうか?)
 兄と梓が結婚してまだ6年あまり。セックスレスになるのはまだ早いのだけれどと思いながら、兄の横に滑り込んだ。
 兄はボクに手を出してくる様子はない。安堵しながら、兄とこうして一緒に寝るのは久しぶりだなと思いながら眠りに落ちていった。

 欲求不満なのか、兄とセックスしている夢を見た。かなりリアルな夢だ。ハッとして目を覚ますと、兄の手が着ていたパジャマの下から入ってきていてボクの胸をユルユルと揉んでいた。
 パジャマの上から兄の手を叩くと、すっと抜け出ていった。ホッとしたのも束の間、すぐに兄の手が入ってきてボクのウエストあたりに置かれた。
 (これくらいだったら、いいか)
 そう思っていると、またもや手が上がってきてボクの胸を揉み、さらに下へ移動してきてショーツの上から触り始めた。
 欲求不満になっているボクは、本当のところを言えば受け入れたかった。けれど、いくら梓の振りをしているとは言え、相手はボクの兄なのだ。
 「眠ういい」
 甘えた声で言うと、諦めたように手が抜け出ていき、今度は寝息が聞こえ始めた。兄が寝たのを確かめてから、ボクは自分で慰めた。後ろめたい思いで。

 目覚ましが鳴って目が覚めたけれど、一瞬ボクはどこで何をしているのかわからなかった。横で兄が寝返りを打ったのを見て、梓の振りをして実家に戻ってきたことを確認した。
 パジャマをトレーナーに着替えて部屋を出る。子ども部屋を覗くと、子どもたちはすやすやと眠っていた。
 階下に降りると、飯の炊ける匂いがしていた。顔を洗って簡単に化粧をすませると、すぐに味噌汁作りに取りかかった。同時に翔太のお弁当作りをする。弁当の内容はこれまた細かく梓から指示されていた。
 冷凍庫に入っているハンバーグのタネを取り出して解凍して焼き、卵焼きなどを作る。ブロッコリやニンジンなどの野菜も忘れないで入れた。小さなおにぎりを作って、ふりかけを掛けるなどをする。可愛らしいお弁当ができた。
 (ま、梓が作ったようなものだけどな)
 焼き魚を焼いていると兄が起きてきて洗面所に行った。兄はボクと違って父似で背が高く格好いい。どうしてボクは母に似たんだろうとかと恨めしく思う。
 子どもたちを起こしに行く。眠そうな2人を着替えさせて一緒におり、顔を洗わせて食卓に座らせた。
 翔太は大丈夫だけれど、澪はボロボロと零しながら食べる。手伝って食べさせる。ちょっと大変だ。
 兄も子どもたちもボクと梓が入れ替わっていることに気づかない。
 「あなた。お弁当を作ったから持っていって」
 もっと小さな塊があったのに気づかずに大きなタネを解凍してしまったのだ。だから、ついでに兄の分も作ったのだった。
 「へえ、久しぶりに作ってもらったな」
 嬉しそうな顔をして、鞄に入れて出掛けていった。すぐに翔太の保育所の迎えがやってきた。送り出すと、ホッとひと息だ。しかしすぐに両親が起きてきた。
 お茶を煎れてやると、父は何もいわずに一口のみ、新聞を読み始めた。父はいつもこの調子だから驚きはしない。母はと言うと、飯と味噌汁をよそってテーブルに運んできて、父に食べますよと言っている。そばにいるとばれる危険が増すので、ボクは洗濯に取りかかった。
 朝食を終えた父は仕事に出掛けていく。兄と違って市外方向なので、道が混まない。だから兄よりも少し遅くに出るのだ。
 汚れ物を片付けた母は、応接間に入っていった。何をしてるんだろうと思って覗いてみると、応接間にある仏壇に向かって手を合わせている。仏壇にはボクの写真が立てられていた。
 ボクは死んだことになっていることを改めて思い出した。母は長いこと手を合わせている。母は兄よりも自分に似ているボクを可愛がっていた。ボクが死んだことで気落ちしたことだろう。
 ボクはここにいるよと言って慰めたかった。けれど、そんなことはできるわけもない。ボクは心の中で母に親不孝してしまったことをわびるしかなかった。

 母は応接間から出てくると居室に引っ込んでしまった。ボクは部屋に掃除機を掛け、それから澪を相手に絵本を読んだりしてやった。これももちろん梓に指示されていたことだ。
 10時前に電話が鳴った。
 「もしもし、加藤でございます」
 《上手く梓を演じてくれているようね?》
 梓だった。
 《予定を早めて今から飛行機に乗るの。1時頃チェンジしましょう。紙に書いてあった喫茶店で。化粧品を忘れないでね》
 そう言うとすぐに電話が切れた。
 (1時か。昼食後だな)
 夕方なら買い物の口実がつけられるけれど、昼間家を出るにはどうすればいいのかわからない。しかし、何か口実を見つけるしかない。

 指示通りにそばを作って母と澪と一緒に食べた。片付けを終えたときには、時刻は午後1時を回っていた。
 電話が鳴った。
 《もう着いて待ってるわ》
 「今昼食が終わったところ。それに出掛ける口実がなくて」
 母に聞こえないように小声で答えた。
 《友達から電話がかかったって言えばいいわ。急いでよ》
 人に無理を頼んで、随分横柄だなと思いながらも、梓の願いには素直に応じてしまう。
 「すみません、お義母さん。友達から電話で、ちょっと会いたいって言ってきたんです。1時間ほど澪のことお願いします」
 早く帰ってきなさいよと釘を刺されたけれど許してくれた。ボクは着替えやすいようにワンピースに着替え、バッグに化粧品が入っていることを確かめてから出掛けていった。

 梓は、ベージュ色のスカートスーツにロングのウイッグを被り、真っ赤な口紅をしてイライラした様子で待っていた。
 「どうだった? ばれなかった?」
 ボクは頷く。
 「あの人に迫られなかった?」
 「焼酎飲んでぐっすりよ」
 夜中のことは言わなかった。
 「じゃあ、チェンジしましょう」
 トイレに入り、個室の中で着替える。ウイッグを被って真っ赤な口紅をすると、普通の主婦がキャリアウーマンになった気分だ。
 「じゃあ、ありがとう。これは帰りの切符よ」
 午後5時の東京行きの切符だった。
 (少し時間があるなあ)
 市内で買い物でもしようかと考えたけれど、万が一梓の知り合いにでも出会ったら困るので、真っ直ぐに空港へ向かった。

 空港カウンターで1便早い飛行機に変更してもらって東京へ戻った。
 「あら? 凄い格好をしてるわね?」
 アパートに着くと、山崎が目を丸くした。
 「ははは。ちょっと、雰囲気を変えてみました」
 「昨日はどこに行ってたの?」
 「え? ちょっとね」
 梓の身代わりで大分に行っていただなんて言えない。
 「彼氏ができたんでしょう? お泊まりするような」
 山崎はボクが遊ぶお金を持っていないことは知っている。そんなのではないと言えず、笑って誤魔化すしかなかった。
 「そのスーツ、メーカー品じゃない? 彼氏、お金持ちなのね。逃げられないようにしなさいよ」
 山崎はそう言ってニヤリと笑った。確かにスーツは仕立てがいい。ボク自身はとても買えそうもない。
 (このまま貰っちゃっていいんだろうな)
 成功報酬と言うところだなと考えた。
 (それに両親の元気な姿を見ることができたし)
 ボクが梓の要求に乗ったのは、そんな理由もあったのだ。

 翌日の昼休み、弁当を食べていると電話が入っていると呼び出された。
 「もしもし、小川です」
 《わたし、梓》
 「ああ、どうかしたの?」
 《茜さん、あなた、姑に何かした?》
 「えっ? 何かって、どうかしたの?」
 《いつもより少し機嫌がよくって》
 「お風呂上がりにお茶を入れてあげただけよ」
 《そんなことで機嫌がよくなるんだ。わかったわ。わたしもやってみる》
 「頑張って」
 嫁姑の仲がよくなればいいなと思って電話を切った。



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