第15章 初恋の人からのお願い


 男は追いかけてきてボクの腕を掴んだ。
 「待てよ。どうして逃げるんだよ」
 「離してください!」
 ボクは男の手を振り切る。
 「どうしたって言うんだよ。俺だよ」
 「あなたなんか知らないわ」
 「俺のこと、嫌いになったのか?」
 「だから、あなたのことなんて知らないって言ってるでしょう!」
 ボクは立ち去ろうとする。しかし男は諦めない。押し問答していると、警官がやってきた。
 「どうかしましたか?」
 「このひと、わたしを誰かと勘違いしてるんです」
 「まったく知らない人?」
 「ええ、知りません」
 男はそんなはずはないと反論した。
 「知らないものは知らないんです。お巡りさん、何とかしてください」
 「きみ。この人が知らないって言ってるんだ。付きまとうのは止めた方がいいよ」
 男は憮然として、思いついたように携帯を取りだして掛け始めた。
 「梓? えっ! 梓なのか? あ、いや。参った。キミそっくりな女性がこっちにいてね。間違えて声を掛けてしまったんだよ。わかった。また掛ける」
 携帯を切ると、男は人違いでしたとボクに向かって頭を下げた。
 「イヤ、ホントにそっくりで驚きましたよ」
 そう言い残して立ち去っていった。
 (警官がやってきたから、面倒になると思って、携帯を掛けた振りをしているだけに違いない)
 そう思いながら、男の後ろ姿を見送った。

 数日後、レジを打っていると、男がお茶のペットボトルを持ってやってきた。ボクは男の顔は見ずに、120円ですと告げ、200円を受け取って釣り銭を渡した。
 次のお客の会計をやっていると、男は携帯を取りだしてボクに向けてシャッターを切った。お客の相手をしているので文句を言えなかった。
 「梓か? 例の女性の写真を送るよ。名前は小川茜さんだ」
 チラリとボクの方を見て笑みを浮かべ立ち去っていった。横山の手先にしてはおかしな行動を取るなと思っていた。

 それ以降は男は接触してこなかった。そんな男がいたことなど忘れかけていた6月半ばのある日のこと、仕事を終えてアパートに向かって歩いていると、後をつけてくる足音に気づいた。振り返るとサングラスをした女性が立っていた。その女性はゆっくりをサングラスを取った。その顔を見て、これほど驚いたことはなかった。ボクの顔をしていた。
 「まあ、ホントにわたしそっくりね。背丈も体格もほとんど同じ」
 その人は、にこやかに微笑みながらボクに歩み寄ってきた。
 「わたし、嶋津梓と言います。少しお話ししませんか?」
 その女性は、何とボクの初恋の人、梓その人だった。どうしてこんなところにいるんだろうかと訝りながら、梓に付いていった。

 近くにあった喫茶店に入り、周りの人たちに気づかれないように奥の席に陣取った。
 「小川茜さんっておっしゃったわね?」
 「ええ」
 「まるで双子みたいに似ている人がいるだなんて、とても信じられないわ」
 わたしもですと答えながら、梓そっくりに整形してもらったんだから当たり前だと思っていた。
 「出身はどちらなんですか?」
 「え? ああ、新潟です」
 「新潟。じゃあ、わたしの家とは縁もゆかりもなさそうね」
 「梓さんはどちらなんですか?」
 「わたし? わたしは大分よ」
 「従姉妹似って言うのは聞きますけど、他人でこれだけ似ているなんて、恐ろしいですね?」
 「そうね。ドッペルゲンガーを見たら死ぬって言うじゃないですか。あの人に、わたしそっくりな人がいるって聞いたとき、最初は恐ろしくて会いに来られなかったわ」
 「あの人って?」
 「わたしと間違えてあなたに声をかけた人よ。あなたが働いているスーパーにも行ったことがあるでしょう?」
 「ああ、あの人。きっと新手のナンパだと思ったわ」
 横山の手先じゃないかと思ったなどとはもちろん言えるはずがない。
 「そうよね。俺の彼女に似ているって言うのはナンパの手口ですものね」
 「あの人、梓さんとどういう関係なんですか?」
 「え? ああ。今言ったでしょう? 俺の彼女に似ているって言われてナンパされたの。ふふふ」
 「じゃあ、ご主人?」
 違うのは知っている。梓は結婚している。そのことを隠すためか、旧姓を使っている。けれど、あえてそう尋ねてみた。
 「違うわよ。ただのお友達」
 「ナンパされたって言ったわよね? ただのお友達なの?」
 「ふふふ。そこのところは想像にお任せするわ」
 信じたくはないけれど、梓はあの男と浮気している。愕然とした。
 「茜さん、彼氏とかはいるんですか?」
 「いないわ。職場とアパートの往復だけですから」
 「あら? もったいない。美人なのに」
 自分も美人だと言っているようなものだ。
 「少し暇ができたら。ところで、ドッペルゲンガーの恐怖に打ち勝ってわたしに会いに来た理由は何なんですか?」
 「ああ。あの人がね。似てる、似てるって何度も言ってくるから、わたしのこの目で確かめたくなったの」
 「ふうん。そうなんですか」
 それだけのために大分から東京まで来るかなと思っていた。その時、梓の持っているバッグの中から携帯のメロディーが流れ始めた。
 「もしもし? ああ、修ちゃん。今会社が終わったところなの? ずいぶん遅くまで働いているのね。ええ、もう来てるよ。今ね。例の彼女と一緒なの。そうよ。会いに来ない? 彼女の働いているスーパーから駅の方に歩いて5分くらいの場所にあるアリスって言う喫茶店にいるわ。そこからだったら、15分くらいで来られるわね。じゃあ、待ってるから」
 携帯を切ると、梓は悪戯っぽい表情をボクに向けてきた。
 「修ちゃんを騙せるかやってみない?」
 「いくら似てても無理よ」
 「いいからやりましょうよ」
 ウエイトレスにトイレの場所を尋ねると、梓はボクを引っ張っていった。
 「さあ、早く脱いで」
 着ていた服を取り替え、ブラシとピンを使ってヘヤースタイルを少し変えた。さらに化粧を少し変えてみる。
 「これでいいわ。修ちゃんがやってきたら、手を振ってね。そして、やってきたら、遅いいって甘えた声で言うの。こうよ」
 梓は、甘ったるい声で言って見せた。
 「それでいいわ。じゃあ、あとは適当に話を合わせてね」
 トイレを出て、席を替わって座った。注文したコーヒーを飲んでいると、あの男が入ってきた。キョロキョロしている男に向かってボクは手を振った。
 男は、笑顔を向けて歩み寄ってきた。
 「修ちゃん、遅いい」
 そう言うと、男には背を向けている梓が上手いと口を動かした。
 「これでも大急ぎで来たんだぞ」
 少し不服そうに言う。可愛いと思った。
 「こちら、小川茜さん。知ってるわよね?」
 ボクが梓をそう言って紹介する。
 「やあ。先日は大変失礼しました。てっきり梓だと思いこんでしまって」
 はにかみながら言い、ボクの横に座った。
 「これくらいそっくりなんですもの。間違えるのも無理はないです」
 ボクと話したときとしゃべり方がまったく違う。と言うか、ボクのしゃべり方そっくりだ。
 「おふたり、どういう関係なんですか? 恋人?」
 よくそんなことを尋ねるなと思いながら、梓の顔を見ていた。
 「いやあ、そんなもんじゃないですよ。ただの友人ですよ」
 なあとボクに確認を求めてきた。ボクは肩を竦めて見せた。
 「男と女の友人って成り立つんですか?」
 梓は追い打ちを掛ける。
 「ははは。そこのところはご想像に任せますよ」
 同じ返事だと腹の中で笑っていた。
 「いいなあ。梓さんは彼氏がいて」
 「あれ? 茜さんには彼氏がいないんですか?」
 梓は頷く。
 「滝沢さんは何のお仕事をしてるんですか?」
 名字がわかった。
 「ボク? 通信関係の仕事をしてるんですよ」
 「通信関係? 電話機とか?」
 「電話も扱ってますけど、いろいろと」
 「そう」
 梓は両手を組んでその上にあごを乗せた。滝沢がオヤッと言うように首を傾げた。ちょうどその時、梓のバッグに入っている携帯が鳴り始めた。どうしたらいいのかわからない。
 「梓さん、携帯が鳴ってるわよ」
 梓に促され、携帯を取りだした。『夫さん』の表示が出ていた。話したらいけないと、携帯を梓に渡した。梓は相手を確かめてから受話スイッチを押した。
 「もしもし、あなた? 今からホテルに行くところ。大丈夫よ。初めてじゃないんだから。わかってるわ。ちゃんとお土産買って帰るから」
 携帯を切ったとたん、滝沢が梓を指さした。
 「梓か?」
 「違うわよ。わたしは小川茜」
 「小川茜さんは、こっちだよな?」
 ボクを指さす。
 「修ちゃん、わたしがわからないの? ひどいい」
 ボクが甘えた声で言うと、困惑した顔でボクと梓を見比べた。梓が笑い始めた。ボクもつられて笑う。
 「どっちがどっちなんだ?」
 「そんなにわからない?」
 「わからない。声だって、ほとんど変わらないんだから」
 「違うわよ。よく聞いて」
 ボクも違うわよ、よく聞いてとオウム返しのように言った。
 「あ、わかった。やっぱり、キミが梓で、こっちが茜さんだ」
 「違う、違う。反対よ。もう。ひどいい」
 梓が甘えた声で言う。
 「いや、絶対におまえが梓だ。間違いない」
 梓は面白そうに笑う。
 「だって、あの人からの電話に出たんだもの。わからない方がおかしいわ」
 「参ったな。ヒントがあってもわからないんだから、ヒントがなかったら全然だ」
 失礼しましたとボクに言い、席を立って梓の方に移動した。梓は滝沢とまるで新婚の夫婦のようにべたべたしている。夫に悪いと思わないんだろうかと少し腹が立っていた。
 30分後、梓は滝沢に寄りかかり、ボクにバイバイ、またねと手を振って駅の方へ歩いていった。
 こっそりと二人の後をつけていくと、駅裏にあるラブホテルに入っていった。心の底から腹が立った。そして、失望した。

 アパートに帰ると、山崎が何を怒ったような顔をしてるのと尋ねてきた。
 「怒ってなんかいないわよ」
 そんな返事に、山崎はやっぱり怒ってると言い、先に入るわよと言って浴室に消えていった。
 鏡を見た。ボクの顔は怒りでいっぱいだった。梓はボクの初恋の人、永遠の憧れの人だ。その梓が、夫を放って浮気しているなんて、どうしても許せなかった。
 それなのに、山崎と入れ替わりに入った浴室の中でボクはいつものように妄想しながらオナニーした。
 (あれはボクの知ってる梓じゃない。あの梓は別人だ)
 そう思いこみながら、達していた。

 ほぼひと月後、電話がかかっていると事務所に呼び出された。
 「もしもし、小川です」
 《茜さん? 梓です。明日、お休みでしょう?》
 「え? ええ」
 《仕事が終わったら、会えないかしら?》
 「こっちに来てるんですか?」
 《ええ。今朝来たの。この前の喫茶店で待ってるわ。お願いね》
 梓のことなど、脳裏から消し去ろうとしていたのに、声を聞いたとたん、そんな決意は消し飛んでいた。
 仕事を終えると、ボクはいそいそと喫茶店へ向かった。

 喫茶店に入ると、先月と同じ席で梓が待っていた。その梓を見てちょっと驚いた。
 「ふふふ。似合うかしら?」
 ヘヤースタイルがボクと同じになっていた。数日前、滝沢が店にやってきて、ボクの写真を撮っていったのはこのためだとわかった。
 「どうして? ヘヤースタイルを変えたの?」
 「今日来て貰ったことと関係があるの。座って。コーヒーでいいでしょう?」
 「え? ミルクティーにするわ」
 ウエイトレスにミルクティーを注文する。
 「実は茜さんに折り入ってお願いがあって」
 梓の願いなら何でも聞いてやる気持ちになっていた。
 「いったい、何のお願いなの?」
 「実はね。先月までは、こちらに来るときは一泊泊まりだったのね。つまり、朝の第1便でこちらに来て、一泊して翌日の最終便で戻る。そう言う日程」
 その一泊で滝沢と寝るんだと考えていた。
 「それで?」
 「姑がね。一泊しないで日帰りでもいいんじゃないかって言い出して」
 そこまで聞いたら、先が読めた。
 「だ、だめよ。短時間ならともかく、長時間になったら、絶対にばれるわ」
 「大丈夫よ。茜さんだったら。いい? 今日これから羽田に行って最終便に乗る。空港バスで大分駅まで行って、そこからはタクシーでいいわ。うちに着くのは午後9時半くらい。姑にお土産を渡して、部屋に行って着替えて、すぐにお風呂に入る。入浴後はそのまま部屋に戻って寝ちゃえば、主人の両親と顔を合わせる時間はほとんどないわ」
 「ご主人がいるんでしょう?」
 「あの人、その頃には酔っぱらって半分寝ているから大丈夫よ」
 「でも、ご主人が迫ってきたらどうするのよ?」
 「疲れてるって言ったら、無理強いする人じゃないの。もし茜さんにその気があったら、主人に抱かれてもいいわよ」
 そう言ってニッコリと笑った。
 「馬鹿なことを言わないでよ」
 「だったら、さっさと寝ちゃう。それで終わり」
 「明日はどうするのよ?」
 今日の夜は短いからいいものの、明日は長いのだ。
 「6時に起きるでしょう? それから顔を洗ってお化粧して朝食の準備。料理はできるんでしょう?」
 「できるわ」
 「お化粧は必ずしてね。簡単でいいから。しないと姑がうるさいの。女は素顔を曝すものじゃないって」
 昔の人らしい言い分だ。
 「7時に主人を起こしに行って、朝食を食べさせて送り出す。舅と姑がその頃起きてくるけど、朝食は自分で食べるから、その間に洗濯をしておく。朝食が終わった舅は仕事に出掛けて、姑の方は大抵部屋に籠もって昼食まで出てこないわ」
 「昼食は何を作るの?」
 「昼食は何でもいいんだけど」
 「そんなことを言われても困るわ」
 「確か、そばがあったと思うから湯がいて出してあげて。それでいいと思うわ。東京行きの最終便で茜さんがこちらに戻れるように、わたし、午後の便で戻るわ。大分に着いたら電話を入れるから、買い物に行く振りをして出てきて。それでチェンジよ」
 「大丈夫かなあ」
 言いながら、ボクはもはやその気になっていた。
 「お願い!」
 梓は、両手を合わせた頭を下げた。
 「わかったわ。でも、ばれても責任は負わないわよ」
 「もちろんよ。でも、茜さんとわたしが一緒にいない限りは、絶対にばれないし、疑われても誤魔化せると思うわ」
 そうかもしれないと思う。
 「これはわたしの自宅の住所と、家の中の見取り図」
 家の中の様子を細かく説明する。
 「じゃあ、服を交換しましょう」
 ボクは梓と一緒に立ち上がり、トイレに向かった。



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