第14章 他人のそら似


 俺の本名は、三日月七郎という。俺が捨てられた日の夜空に三日月が浮かんでいて、その施設に捨てられた赤ん坊が俺で7人目だったという簡単な理由だ。
 俺を捨てた両親の名前は当然わからない。育てられないからお願いしますなどと言った書き置きもなく、俺が包まれていたバスタオルも今の100円ショップで売られているような量販品で両親を捜す手掛かりはなかったという。
 子どもを産んだはずなのに、子どもがいなくなった女性も近くにはおらず、遠くから捨てに来たのだろうと言われているらしい。
 ともかく俺は氏素性のわからない捨て子だった。

 高校卒業後、施設を追い出された。それ以上いられなかったから仕方がなかった。さる新聞店に住み込みで働くことになったけれど、3日目に逃げ出した。
 (朝っぱらから起きて働けるかよ)
 はっきり言って人間の生活じゃないと思った。逃げ出すとき、俺は生まれて初めて罪を犯した。店主の金庫から10万ほど盗んだのだ。
 「東京、東京。絶対に東京だ」
 東京に行けば何とかなると俺は考えていた。電車賃が勿体ないので、国道を走るトラックを止めては乗せて貰い、一路東京へ向かった。
 最後に乗ったトラックの目的地は築地だった。
 (ここが有名な築地かよ)
 トラックの運ちゃんに紹介された店に入って海鮮丼を食べた。これは絶品だった。生まれて初めて美味いものを食ったと思った。
 それから電車を使って新宿に出た。肉体労働なんてしたくなかった。俺には向いていないし、水商売の方が楽だと思ったからだ。
 「駄目だ、駄目だ。おまえみたいなガキは雇えない」
 高校を卒業して出てきたと何度言っても信じてもらえなかった。三日月七郎なんて嘘っぽい名前だったし、身分を証明するものを何一つ持っていなかったからだ。それに、その当時の俺はとても高校を卒業したとは思えないほど幼く見えたのも原因だった。
 それでも仕事は何とか見つけなければならない。手当たり次第に店を訪れて回った。けれど、結果は同じだった。
 途方に暮れながら、缶ジュースを飲んでいると、ポンと肩を叩かれた。振り向くと、けばい化粧をして派手なドレスを着た女が立っていた。
 「何か用ですか?」
 「ボク、ホントに18なの?」
 「そうですけど」
 「見えないわね。せいぜい15、6」
 ムッと来た。
 「だったら、どうだって言うんです!」
 「うふっ! 怒った顔が可愛いわね」
 「何が言いたいんですか、小母さん!」
 「小母さん? 25のうら若き女性を捕まえて小母さんはないでしょう?」
 「20才を超えれば、みんな小母さんですよ」
 「生意気ね。ガキの癖して」
 「だから、何だって言うんですか? 俺をからかって喜んでるんですか?」
 「ボク、仕事を探してるんでしょう?」
 仕事という言葉を聞いて俺はちょっと下手に出た。
 「何か、いい仕事があるんですか?」
 「ボクにできるかなあ?」
 「何だってできますよ。言ってみてください」
 「わたしのこと、お姉さんって呼んだら教えてあげる」
 「お姉さん? そうですね。25だったら、お姉さんでいいですよね。じゃあ、お姉さん、仕事は何なんですか?」
 「そうね。説明する前に腹ごしらえと行きましょうか?」
 「腹ごしらえ、・・ですか?」
 「そうよ。腹が減っては戦はできないって言うでしょう?」
 俺に背を向けて歩き始めたので、俺は女の後についていった。

 女はとある食堂へ入っていった。
 「ここ、汚い店だけど、結構いけるのよ」
 「汚い店が何だって?」
 それこそ汚いエプロンをした体格のいいおっさんがニタニタしながらやってきた。
 「後ろの方を聞いてないの? 美味しい店だって言ったのよ」
 「そうかい。で? 注文は?」
 「ステーキふたつ」
 へいへいと返事をしながら、奥の厨房へ引っ込んでいった。女はバッグの中からタバコケースを取り出して一本口に咥えたあと、ケースを俺に差し出した。
 「あ、俺はいらないよ」
 「あら? 吸えないの?」
 馬鹿にしたような目を向けられ、俺はタバコを一本手にした。女がライターで火を付ける。
 「げほっ! げほっ! げほっ!」
 一息吸い込むと咳が出た。女がキャハハと笑って、煙を吐き出した。もう一息吸った。今度は咳は出なかったけれど、幻暈がした。
 「お待ち!」
 エプロン男が、焼いた肉を鉄板ではなく皿に載せて持ってきた。あまり美味そうに思えなかった。
 スープにサラダ、飯も運ばれてきたけれど、これも見かけは不味そうだ。女はステーキを頬張り、あんたも食べなよと俺に言った。
 ナイフで切ってみると、焼き具合はウエルダンで、施設で1年に一回出てくるステーキみたいだった。
 一切れ口に入れてみた。硬いが不味くはなかった。
 「トイレに行ってくるわ」
 サラダとステーキを食い終わった女がバッグを持って立ち上がった。
 「トイレ、どこかしら?」
 「向こうだよ」
 店の主人が顎で差し、女は礼を言ってトイレへ向かった。
 (スープもまずまずか)
 ジュルジュルとスプーンで啜った。食い終わっても女は戻ってこない。
 (おせえな。糞でもしてるのかな?)
 時計を見上げると、女がトイレに立ってから30分がたとうとしていた。
 「お兄さん、そろそろ会計を」
 店の主人が手をすりあわせながら俺に言った。
 「連れの女の人が払ってくれることになってるんですけど?」
 「連れ? あの女なら、もう出て行ったぜ。あんちゃんに払って貰うように言ってな」
 「ええっ! あの女に人が奢ってくれるって」
 「何だって! まさか、無銭飲食しようって言う気じゃないだろうな?」
 「あ、ああ、いや・・・」
 「金は持ってるんだろうな?」
 「奢ってくれるって言ったから・・」
 「おいっ!」
 首筋を掴まれる。
 「財布を出せ!!」
 俺は後ろポケットから財布を取り出して店主に渡した。
 「3000円! これしか持ってないのか?」
 「持ってませんよ」
 「持ってなくて、ステーキを食おうとしたのか?」
 「だから、あの女が奢ってくれるって・・・」
 店の主人と話をしながら俺は考えていた。
 (無銭飲食になれば警察を呼ぶだろうな。このステーキってせいぜい3000円くらいなものだろう。警察を呼ばれたら、事情を話して俺の分だけ支払えばいいよな)
 ところが店の主人は警察を呼ぶ気配がない。アッと思ったときには店の主人の拳が目に入り、そして目に火花が飛んでいた。さらに鉄拳が鳩尾に食い込み、急所を蹴上げられた。
 店の主人は苦しむ俺を店の外に放り出してドアをバタンと閉めた。
 (いてえ。タマが潰れたんじゃないか)
 それほど蹴りが強烈だった。股間を押さえながら、よたよたと歩いて近くにあった公園でぶっ倒れていた。
 (財布に全額入れてなくて良かったぜ)
 万札9枚は靴の底に隠してあったのだ。

 どう考えても癪に障る。女だけではなく、あの店もグルではないかと考え始めた。安っぽい肉で何万円もぼるのだろう。
 (あの店主には敵わないだろうけど、女の方なら)
 翌日、店のあたりを見張っていると、あの女がやはりお上りさんのような男を連れてやって来た。
 店に入ったのを確かめてから、俺は店の裏に回った。待つこと15分。裏口から女がこそこそ出てきた。
 俺は全力で身体ごと女にぶつかっていった。
 「きゃっ!」
 アスファルトの上に倒れた女の上に馬乗りになって、女の顔にパンチを食らわせてやった。
 ぐったりした女の手からバッグを奪うと、財布を取り出して中から万札を2枚取り出した。
 「警察に言わないだけありがたく思えよ」
 つばを吐きかけて、一目散に逃げ出した。

 東京は怖いと感じた。ほとぼりを冷ます意味もあって福岡へ飛んだ。飛んだと言っても、やっぱりヒッチハイクだ。飛行機や電車に乗るのは勿体ないし、急ぐ旅ではないからだ。
 中長距離トラックのお兄ちゃんたちは結構人が良くて、運転中の退屈しのぎになるからと言って快く乗せてくれた。
 しかし、時には注意しないといけないこともあった。名古屋から乗せて貰った運ちゃんは、すごく親切で昼飯を奢ってくれたのだけれど、仮眠を取ると言って駐車スペ-スに停まったとき、俺を襲おうとしたのだ。男の俺をだ。それからしばらくは普通の車を停めて載せて貰った。

 福岡ではやはり中州に行って水商売の仕事を探した。
 「ようし。キミのその目を信じて、雇ってあげよう」
 ある店でそう言われたとき、本当に嬉しかった。仕事にありつけたのは良かったけれど、その仕事はまったくの下働きなのだ。
 「七郎! ビールを運んでこい!」
 「はい」
 店の裏からビールをケースごと運ぶ。華奢な俺には重労働だ。けれど、やらなきゃ首になってしまう。
 「七郎! 男子トイレの掃除だ!」
 お客がゲロを吐いていた。吐きそうになりながら片付けた。働きずくめで、店がはねてから後片付けまでして貰った給料はたったの2000円だった。
 (仕事がないよりましだけどな。美奈とか言う俺と同い年のホステスは万札を貰っていたな。くそ! 女に生まれりゃよかったぜ)
 むかついた。
 (それはそうと、今日はどこに泊まろうか?)
 深夜営業のサウナでも泊まるしかないなと考えてながら裏口を出ると、明菜と言う少し年増のホステスが待ち受けていた。
 「七郎ちゃん、ちょっと付き合わない?」
 「いいですけど、どこに行くんですか?」
 「馴染みのスナックよ」
 ホステスさんたちは、お客に勧められて飲むことはあっても、酔うほどは飲めない。店が終わってからはお客になって気持ちよく飲みたいのだろう。
 明菜に腕を取られて歩いて5分ほどのスナックに行った。
 「明菜さん、こんな時間に未成年を連れてくるのは拙いよ」
 スナックのマスターが俺の顔を見て言った。
 「18だからいいでしょう?」
 「酒は出せないよ」
 「じゃあ、七郎ちゃんにはジュースをあげて。わたしは、水割りね。うんと濃いやつを頼むわ」
 どう足掻いても俺は未成年に見えるから、仕方なくオレンジジュースを吸った。
 「ところで、どういう関係なの? 明菜さんの隠し子?」
 「バカなことを言わないでよ。どこが親子に見えるって言うのよ!」
 マスターは冗談だよと打ち消したけれど、本気で言ったのかも知れないと思っていた。

 明菜は水割りを2杯のみ、カラオケを3曲ほど歌ってから、会計を済ませた。
 「ラーメンを食べましょう」
 フラフラしながら歩く明菜を連れて、屋台に入った。豚骨ラーメンなど初めて食ったけれど、結構美味いと思った。
 ラーメンを食い終わると、明菜はタクシーを止めた。
 「ご馳走様でした」
 見送ろうとすると、明菜は部屋まで送ってよと言い出した。仕方がないのでタクシーに乗り込み、アパートとマンションの間くらいの建物に同行した。
 「入って」
 「いえ、ここで失礼します」
 「いいから入いんなさい」
 無理矢理部屋の中に連れ込まれた。しかも抱きつかれてキスされた。
 「ちょ、ちょっと。明菜さん・・・」
 明菜はフフフと笑いながら俺をベッドに引っ張っていった。俺の戸惑いをよそに明菜はするすると着ていたものを脱いで全裸になった。
 「七郎ちゃんも早く脱いで」
 着ていたものを脱がされ、ベッドの中に引っ張り込まれた。
 「フフフ。若いわね」
 明菜の手が俺の股間を撫でる。俺のペニスははち切れんばかりになっていた。明菜が布団の下に潜り込み、ヌラリとした感触を覚えたとたん、俺は一気に射精していた。
 「こら! もう行くなんて!」
 そう言いながらも明菜は嬉しそうに俺が放ったものをごくりと飲み込んでいた。

 15分ほど前から明菜が俺の身体を舐めている。部屋の中はすでに明るくなっていた。
 「今朝はすぐに行ったりしないでよね」
 そう言い、またもや俺のペニスを銜えた。すぐに硬くなったけれど、今朝は何とかもっていた。
 明菜が這い上がってきて俺に跨り、手を添えて俺のペニスを自分の中に導き、腰を上下に振り始めた。
 「ああ、いい。七郎ちゃん。下から突いてよ」
 明菜の動きに合わせて腰を突き上げた。グチュグチュと卑猥な音が部屋の中に響き渡る。俺のペニスがベットリと濡れているのが見えた。
 (明菜、年はいくつなんだろう? 30は越えているよな。もしかすると、40に近いかも)
 思いながら腰を動かした。上下を入れ替え、正常位で果てた。気持ちが良かった。

 明菜とは3ヶ月続いた。別れたわけは、俺が別の若いホステスと浮気したからだ。そのホステスとはひと月で別れ、別のホステス・直美に乗り換えた。働かなくてもいいと言ったからだ。つまり、俺はヒモになったわけだ。
 ヒモというのは女に喰わせて貰っていいと誰もが思うかも知れない。けれど、これが結構大変なのだ。
 とにかく女を満足させてやらないと行けない。明菜に習ったテクニックを駆使して、行かせてやるのだ。疲れているからできないなんて言い訳はできない。女が要求してくれば、応じなければならない。
 ただ、昼間は暇だ。だから、俺は貰った小遣いでパチンコに明け暮れた。このパチンコが俺には性が合っていたらしく、あまり負けることがなかった。もちろん負けることもあったけれど、月に10万ほどを手にしていた。
 「七郎ちゃん、山本さんから面子が足りないって連絡が入ってるの。いい?」
 「ああ、いいよ」
 直美に習った麻雀の方は、負けることはなかったけれど、逆に勝つこともなかった。
 「接待麻雀の面子に最適なのよね」
 直美が働いているキャバクラのお得意さんである山本という男からの依頼だった。この日、山本の部下の振りをして麻雀をし、プラス2で終えた。
 「取引が上手く行きそうだ。また頼むよ」
 ゲームが終わったあと、山本からこっそり礼金として5万を貰った。山本がその接待麻雀で取引を成功させていくら儲けたかは知らない。知ったって仕方のないことだからだ。

 2年後、直美にパトロンができて追い出された。胸くそ悪かった。直美がいる町にはいたくなかった。福岡を離れて広島に移動した。
 広島に着いて、早速パチンコ屋に入った。釘の調子が読めずに苦労したけれど、ドル箱ふたつほど玉が溜まった。
 「ヒロシ、おまえがパチンコするなんて珍しいな」
 隣の席に座った男がそんな声を掛けてきた。誰かと間違っているのだろうと俺は男を無視した。
 「ヒロシ! 何、無視してんだよ!」
 男は怒ったように俺の肩を突いた。俺は人間違いだと言って男をぎょろりと睨んだ。
 「え、ええっ! あ、ああ、すまん。あんまりよく似ていたから」
 そう言いながら、俺の顔をじろじろと見ている。
 「そんなに似てるのか?」
 「ああ、そっくりもそっくり。まるで双子だ」
 「そんな奴がいたら会ってみたいな」
 興味本位でそう答えた。
 「ちょっと呼んでやるよ。待ってな」
 男は携帯を取りだして、どこかに掛け始めた。
 「ヒロシか? 俺だ。いま、どこにいる? アパート? そうか。駅前のパチンコ店まで出てこないか? おまえがパチンコをしないことくらい知ってるさ。おまえに会わせたい奴があるんだよ。誰かって? いいから、すぐに出てこいよ。きっとビックリするぜ。ああ、向かいの喫茶店で待ってるぜ」
 男は、親指を立てて俺にウインクした。パチンコの玉がなくなった。ドル箱から上げてもよかったけれど、頑張ってもこれ以上は出ないと感じた。俺はドル箱を抱えて景品交換所に行った。

 男と共に喫茶店へ入り、コーヒーを飲んでいると、しばらくして男が入ってきた。その男がヒロシだとすぐにわかった。
 「ヒロシ! ここだ!」
 男がヒロシを呼び寄せた。
 「俺に会わせたい奴って誰だ?」
 「この人だよ」
 俺の方を指し示した。ヒロシは俺の顔を見て、首を傾げた。
 「どう言うわけだ?」
 「どう言う訳って、おまえに似てると思わないか?」
 「そういやあ、似てないことはないが・・・」
 俺もヒロシの感想と同じだった。双子のように似ているというのは言いすぎだ。
 「そうかな? 似てないか? ちょっと並んでみてくれ」
 ヒロシが俺の横に座り、男が見比べている。
 「そうか。こうして並んでみると違うな」
 「つまらない用事で呼び出すなよ」
 立ち上がろうとするヒロシを男は引き留めて、コーヒーを注文した。
 「双子は言い過ぎだとしても、従兄弟くらいには似てるよな」
 言い訳がましく呟いた。その意見には俺も納得だ。
 「まさか、親戚ってことはないだろうな?」
 俺とヒロシの顔を交互に見ながら言った。
 「俺は捨て子でね。両親の顔はおろか、名前すら知らないんだ」
 「えっ! おまえもか? 俺も捨て子だったんだ。ただ、両親の名前だけはわかってるけどな」
 ヒロシの表情が急に和らぎ、俺に向かって笑顔を見せた。

 話が弾んで、夕方には居酒屋へ移動して酒を酌み交わした。
 「福岡から来たばかりだって?」
 「ああ。ちょっといろいろあってな」
 「泊まるところはあるのか?」
 「まだ決めてない。駅前のサウナにでも泊まろうかと思ってる」
 「だったら、俺のアパートに来いよ。狭いけど、布団はある」
 「いいのか?」
 「いいともさ。従兄弟で通るだろうからさ」
 そう言うわけでヒロシに世話になることになった。

 翌日、ヒロシの紹介で、あるキャバクラの黒服として働くことになった。若くて美形のホステスばかりで、客筋もよかった。つまりは給料もよかったってことだ。
 働き始めて10日ばかりたったとき、22だと自称している真希というホステスから誘いを受けた。
 いつものことなので、気楽に真希と飲みに行き、そして真希の住むマンションでベッドを共にした。
 一夜が明けて、起き抜けの一発をやっていたとき、ベッドルームのドアがバタンと開いた。
 「真希! 貴様! 男を引っ張り込むとはどう言う了見だ!!」
 恐ろしい顔をした男が真希に向かってがなり立てた。
 「おい、おまえ! 俺の女に手を出したらどうなるかわかってるのか!」
 こいつはやくざだと俺の勘が知らせていた。
 (拙い。拙い。逃げなきゃ)
 のしのしと近づいてくる男に俺は体当たりを食わせ、脱ぎ捨てていた服を両手で掴んでマンションを逃げ出した。
 裸のまま階段を駆け下っていき、途中でトランクスとジーンズを穿き、階段を下りきったところで靴を履いてシャツを着た。
 そうしてから振り向かずに走って逃げた。

 国道に出てちょうど通りかかったトラックを止めて乗せて貰い、広島を離れた。尾道あたりに着いたとき、ヒロシに礼のひとつも言ってなかったことを思い出した。
 トラックを降り、広島に引き返した。そして、夜陰に紛れてヒロシのアパートに舞い戻った。
 ドアが半分開いていた。おかしいなと思いながら部屋の中に入ると、ヒロシが口から血を流して倒れていた。
 「ヒロシ! ヒロシ! 死んでる・・・」
 真希のパトロンは、店で俺の住んでいる場所を調べたのであろう。しかしヒロシと一緒に住んでいることまでは言っていなかった。ここにやってきて、俺と間違えてヒロシをぶちのめしたに違いなかった。
 「すまん、ヒロシ」
 立ち去ろうとして、ふと思った。
 (あとになって俺じゃないとばれたら、また追われるかも)
 俺にとって幸いなことに、ヒロシの顔はぼこぼこに殴られて腫れ上がっていて、俺との見分けがますますできなくなっていたのだ。
 ヒロシが着ていたTシャツを脱がせ、俺のシャツを着せた。そうしてからチノパンとトランクスを脱がせて、俺の穿いていたトランクスとジーンズに穿き替えさせた。
 財布も携帯も入れ替え、ヒロシが首にぶら下げていたお守り袋を首に掛けた。
 (これで俺が殺されたことになる)
 誰にも見られないようにアパートを出て、ヒロシを紹介してくれた男に携帯を掛けた。
 「あ、俺、ヒロシ。両親の居場所がわかったんだ。これから上京するから。七郎によろしく言っておいてくれ」
 《よかったな。気をつけて行ってくるんだぞ。七郎には俺から言っておくよ》
 ハンカチを被せて話したからか、それともヒロシの携帯を使ったためか、ヒロシではないと疑わなかったようだ。

 こうして俺はヒロシとして暮らし始めたのだった。つまり、別の人生を生きるのは2回目だということだ。
 女になってしまったけれど、その日暮らしのしがない男として生きるより、ずっと安楽な人生を送れる。
 笑いが止まらなかった。



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