第4章 美子としての訓練

 鏡に映ったボクの姿を横目でちらりと見た。腰から上はほとんど問題がない。いや、全身を見ても女の子なのだが、どこかがおかしい。見た目が女の子らしくないのだ。それは里子さんが言うように姿勢だ。
 「肘を身体に付けて。もう少し顎を引いて上目遣いにして。そう、そんな感じ。それでいいわ」
 里子さんが細かく指示を出す。
 「どうだね? うまくいってるかな?」
 太田弁護士が入ってきた。そうしてボクを見てほほうと驚きの声を上げた。
 「まるで美子様だ」
 「まだまだですよ。今のままではすぐにおかしいと思われてしまいます」
 里子さんは手厳しい。
 「イヤ、まだ2時間もたっていないのに、ここまで来れば充分でしょう」
 「駄目ですよ。時間はあまりないんですから」
 太田弁護士は気押されている。
 「ところで夕食の話なんだが」
 「そろそろ用意ができるんでしょう?」
 「いやね。美子様が戻ってきていないのに食事を頼んじゃおかしいと思ってね」
 あら、そうでしたねと里子さん。
 「それではどういたします? 食事抜きというわけにはいかないでしょう?」
 もちろんそうだ。昼食がうどんだけだったから腹が空いてきていた。
 「いったんこっそりと外に出て、堂々と玄関から戻ってくるようにしようと思ってるんだが、どうだろう?」
 「それだったらいいですね。でも、お嬢様を演じるには、まだ難が・・・」
 「他のものたちに見られなければいいだろう?」
 「それでしたら外に出る意味がないでしょう?」
 「それもそうか。・・里子さんが奥田君を迎えて、さっさとこの部屋に連れ込んでしまうというのはどうだ? 誰かが近寄ってきたら、里子さんが用事を言いつけるとかして、遠ざけるんだよ」
 「それ、いいですね」
 二人が勝手に話を進めたのだが、ボクは待ったを掛けた。
 「この格好で外に出るのはイヤですよ」
 「大丈夫。奥田君のことを男だなんて誰も思わないよ」
 押し切られて屋敷の外に出ることになった。
 「ヒールのある靴なんて履けませんよ」
 「案ずるより産むが易しと言うでしょう? 実地訓練にもなるし、頑張ってきてね」
 美子さん専用のシューズボックスからヒールが7センチもあるサンダルを持ってきてボクに渡した。
 「もう少しヒールが低いものはないんですか?」
 「お嬢様がお持ちのシューズの中では、それが一番低いのよ。じゃあ、お帰りをお待ちしております。お嬢様」
 ニコニコと笑顔でお尻を叩かれた。入ってきた道筋を逆向きにこそこそと移動して、太田弁護士の車に乗り込んだ。もちろん、後部座席に隠れるようにして乗った。そうすると、当然のことながら太田弁護士に膝枕をして貰う形になった。
 「美子様に膝枕をしてあげられるとは光栄だな」
 太田弁護士がニタリと笑って言った。ボクは太田弁護士を見上げて、運転手はいいのかと目配せした。
 「松本なら大丈夫だ。わたしの腹心の部下だからな。もう起きていいぞ」
 屋敷の門からはすでにずいぶん離れていた。あたりは真っ暗だ。街灯すらほとんどない。なんて田舎だろうと思った。
 起き上がってから足の裏に付いた土を払った。サンダルを履かないで土の上を走って車に乗り込んだからだ。それからサンダルを履いてみた。踵が少し出るけれど何とか履けるようだ。車の床に両足を付けてみる。歩けそうな気がした。
 「どこまで行って引き返しましょうか?」
 「この車で戻るわけにはいかんよ。空港まで行ってタクシーを拾おう」
 「まさか、ボク一人で戻るんじゃないでしょうね?」
 「もちろん、そうだ」
 「行く先を言えないですよ。声がこれだし、第一、屋敷の住所を知らないですから」
 「それはわたしがタクシーの運転手に伝えるからいいんだ」
 そう言って太田弁護士はウインクした。

 空港に着いた。太田弁護士は松本に一周してこいと告げてボクと一緒に車を降りた。出発ロビーを通って到着ロビーへ回る。
 「グッドタイミングだ。大阪からの便が着いたようだ」
 ぞろぞろと出てきた人たちに混じって出口を出て、タクシー乗り場に向かった。太田弁護士はボクをタクシーの中に押し込むと、後で行くからと言い、タクシーの運転手に屋敷の場所を教えた。
 ひとりになると急に不安になる。男だとばれないだろうかと戦々恐々だ。
 「お嬢さん。ご旅行でしたか?」
 ひとの良さそうな運転手が話しかけてくる。声を出したら、それこそ男とわかってしまうから、ニコニコしながら頷いておいた。
 運転手はしばらくの間はボクに話しかけていたけれど、ボクはあまり返事をしないで窓の外ばかり見ているので、やがて諦めて運転に集中し始めた。
 (なかなか着かないなあ)
 イライラする。そのイライラが頂点に達した頃、屋敷に着いた。ボクは太田弁護士から渡されていた1万円を運転手に渡した。おつりを渡そうとしている運転手に入らないとジェスチャーをしてドアを開けて貰って車を出た。2千数百円余分に貰った運転手は笑顔でありがとうございましたと礼を言った。
 玄関ドアを開くと、たまたま通りがかったという様子で里子さんがボクに向かって頭を下げた。
 「お嬢様、お帰りなさい。いったい、どこに行ってらしたんですか?」
 大きな声で言って、早く上がれとボクに目配せする。
 「ご夕食はお済みですか? まだですか。すぐに用意させますわ」
 他の使用人に聞こえるように言っているのだ。
 「シゲさん! シゲさん! お嬢様がお帰りになったわ。夕食を準備してくださいな」
 ボクの背中を押しながら、反対方向に向かって叫んだ。バタバタと走ってくる足音がしてきた。里子さんはボクを美子さんの部屋に押し込むと、走ってきたシゲさんという女性に、遅いからお部屋にお持ちしてと命じている。
 「急なので少し時間がかかりますけど、よろしいでしょうか?」
 「できるだけ急いでお願いね」
 そう言って、部屋の中に入ってきた。
 「うまくいったわ。食事ができるまでの間、特訓をしましょう」
 カモフラージュのためかテレビをつけ、ボクに部屋の中を歩くように命じた。
 「あら? 上手く歩けるじゃないですか?」
 「直線の上を歩くようにすればいいんでしょう?」
 「どうしてそれを知ってるの?」
 「テレビで見たことがあるんです」
 「そう。もう少し肩の力を抜いて。そう。いい感じだわ」
 褒めながらも、手の位置とか視線の動かし方などを指摘してくる。うまく操縦されていると感じた。
 30分ほどして時計を見た里子さんは、ボクに化粧室へ移るように言った。
 「かなりよくなったけど、シゲさんにはまだあなたを見せられないわ」
 そうして、バスルームに入ってシャワーコックを捻った。
 「椅子に腰掛けて待っていて」
 居室に戻ってすぐにドアがノックされた。里子さんがドアを開くと、料理を載せた大きなお盆を持った太った女性が入ってきた。ボクは姿を見られないようにドアの陰に隠れた。
 「お嬢様は?」
 「シャワーを浴びてるわ」
 「テーブルの上でよろしいですね?」
 「ええ、お願いするわ」
 お盆をテーブルの上に置くと、ご飯を持ってきますからと言って出て行った。数分後、再びノックの音がして、足音が入ってきてすぐに出て行った。
 「お嬢様、もう出てきてもいいわよ」
 お嬢様と言われて、ちょっとどぎまぎした。
 「今からは、お嬢様と呼ぶことにしたわ。そうしないと、咄嗟の場合に奥田さんなんて言ってしまいそうだし、今のあなたはお嬢様と呼んだ方がいいと思いますから」
 大樹ちゃんと呼ばれたことは遠い昔のことだ。最近は大樹と呼び捨てにされることが多い。お嬢様だなんて、背中がむずむずする。
 「お腹がお空きになったでしょう? お嬢様。さあ、どうぞ」
 飯をよそってくれる。小さな茶碗に3分の2ほどしか入っていない。しかし、おかずの方は、30分の間でよくもこれだけの料理を作ったなと思うほど大量だ。
 「いつもこんなに作るんですか?」
 「え? ああ、そうね。久しぶりにお嬢様が戻ってきたから、力を入れたんでしょう」
 「そうでしょうね。でも、全部は食べきれないですね。残すと勿体ないですよ」
 「お嬢様はそんなことを言ったことがないわ。気持ちはわかりますけど、そんなことは絶対に口にしないでね」
 「は、はい」
 お金が有り余っているんだろうなと思った。
 「お箸の持ち方はいいですけど、迷い箸は駄目ですよ」
 「そんなに大きな口を開けて食べては駄目ですよ」
 「舌なめずりは論外です」
 里子さんは手厳しい。食べた気がしなかった。その上、コルセットで締め付けられていたから、少し食べただけで入らなくなってしまった。
 (ああ、痛い)
 正座して食べていたから、足が痺れて痛んだ。
 「足を開いて、お尻を床に付けるといいですけど、できますか?」
 できないことはないけれど、今は痺れていて無理だ。ボクは足を投げ出した。
 「今日は許しますけど、明日からはそんな格好は駄目ですよ」
 ボクは渋々頷いた。

 汚れ物を下げた里子さんが戻ってきて、深夜に及ぶまで歩く練習や座ったり立ったりの練習をさせられた。
 「お疲れ様でした。お嬢様、そろそろお休みにしましょう。これに着替えてください」
 里子さんは、派手なレース使いのネグリジェをボクに手渡した。
 「こ、こんなものしかないんですか? パジャマとかは?」
 「これしかありません。たとえあっても、これを着ていただきます。早くお嬢様としてやっていけるようにするためです」
 きっぱりと言われ、溜息混じりにボクはそのネグリジェに着替えた。
 「化粧を落としましょう」
 化粧室で化粧を落とされ、ローションに乳液、クリームを塗られた。さらに、髪の毛にカーラーを巻かれる。
 (美子さんだけかもしれないけれど、女は大変)
 「では、お休みなさい。お嬢様」
 ボクがベッドの中に入ったのを確かめると、里子さんは電気を消して部屋を出て行った。 (あああ。あんなところで道に迷わなければ、こんなこと、引き受けなくてもすんだのに)
 そう思いながら目を閉じた。緊張して疲れていたせいか、あっと言う間に眠り込んでいた。

 目が覚めた。寝心地がよくてよく眠ったけれど、これから1週間が大変だなと思い溜息が出た。
 (あれ?)
 ブラジャーのカップに詰めたものがなくなっていた。布団の中を捜すと、足元に転がっていた。ネグリジェのボタンを外してカップの中に納める。ボタンを掛け終わったとたん、ドアが開いた。
 「おはようございます。お嬢様」
 入ってきたのは里子さんではなくてシゲさんだった。ギョッとしてボクは固まってしまった。
 「おめざをお持ちいたしました。30分ほどしましたら朝食ができあがりますけど、食堂にいらっしゃいますか? それともこちらに?」
 化粧をしていないけれど、シゲさんはボクのことを美子さんだと思っているようだ。安心したのはつかの間、シゲさんがボクに近寄ってくる。
 「お嬢様、どうかいたしましたか?」
 万事休すと思ったその時、里子さんが部屋に入ってきた。
 「シゲさん。しばらくの間、お嬢様はこちらで食事を召し上がります。お願いしますね?」
 「は、はい。里子さん。お嬢様の様子が・・・・」
 「お疲れになってるのよ。あとはわたしが」
 「そうですか。それでは後ほど朝食をお持ちいたします」
 不審そうな表情でボクを振り返りながら部屋を出て行った。
 「ビックリしました」
 「見破られなかったようですね?」
 「でも、なんか疑っているような」
 「大丈夫。自信を持って。さあ、おめざを食べなさいな。終わったら着替えてお化粧をしておきましょう」
 おめざは、ミルクティーと小さなクッキーだった。昨夜の夕食が満足に食べられなかったせいで空腹だった。3個のクッキーを口の中に放り込み、ミルクティーを飲み干した。当然のことながら、行儀が悪いと里子さんにお叱りを受けた。
 今日の服はタンクトップに、やはり丈の短いフレアスカートだった。その上にカーデガンを羽織らされた。
 化粧を施されてカーラーが取り去られると、美子さんの顔が現れた。
 「朝食をお持ちしました」
 シゲさんの声がした。里子さんが応対してテーブルの上に置かせている。
 「お嬢様、大丈夫ですか?」
 「ええ、もうすっかり大丈夫よ。心配しないでいいわ」
 里子さんはシゲさんを追い出してからボクを呼んだ。
 「女の子の声が出せるとねえ」
 そう呟く。
 「例え出せても、声の質が違うでしょう?」
 「それもそうね」
 里子さんは肩をすくめて飯の入った茶碗をボクに差し出した。

 食事を挟んで、朝から晩までずっと鍛えられた。里子さんはボクの一挙手一投足を監視し、飴と鞭を使って矯正していった。
 「はい、今日の訓練はこれまで」
 里子さんがそう言ったのは午後11時だった。化粧を落とし、シャワーキャップをかぶって、窮屈な服を脱いで浴室に入った。
 (わおう! 今日はのびのび入れるぞ!)
 五右衛門風呂と違って両手両足を伸ばせる。疲れが吹っ飛んでいく感じだった。

 翌日も翌日も同じ調子で時間が進んだ。

 矢木沢家にやってきて三日半が過ぎた夕方、太田弁護士が久しぶりにやってきた。
 「お、おおっ! まるで美子様じゃないか!」
 「太田! 何を言ってるのよ! わたし、美子よ!」
 「ははは。それで声が美子様なら、絶対に騙されるな。すごいぞ、すごい」
 太田弁護士は拍手喝采だ。
 「里子さん、よくやってくれた」
 「わたしだけじゃないわ。お嬢様の努力ですわ」
 「親族が集まってくるまで、もう三日ある。さらに完璧を目指してくれ」
 「わかっておりますわ」
 太田弁護士は、持ってきた袋をテーブルの上に置いた。
 「なんですの?」
 「これだよ」
 フニャフニャのものを取り出した。
 「人工乳房!」
 「そう。奥田君が美子様の身代わりを引き受けてくれてすぐに手配したんだが、ようやく届いてね。早速着けてみてくれないか?」
 ハイと言ったものの、太田弁護士の前で裸になるのは何となく恥ずかしかった。すみませんと断りを言って化粧室に移動して、Tシャツを脱いでブラジャーを外し、説明書に書かれていたとおりに人工乳房の裏に接着剤を塗りつけて胸に押しつけた。人工乳房の裏側が吸盤のようになっていて、すぐに手を放しても外れないようになっていた。ブラジャーをしてTシャツをかぶり、鏡で服装を整えて二人の前に戻った。
 「見た目は変わらないな」
 「それはそうですよ。膨らんでいるかどうかだけなんですもの」
 「さわった感じはどうかな?」
 太田弁護士がボクの胸に手を伸ばしてくる。ボクは身体を捩って逃げた。
 「触らせてくれよ。男同士じゃないか」
 「今は女の子です!」
 里子さんの提案で、美子さんに成り切るためにボク自身が女の子だと思いこむようにしているのだ。
 「仕方ない。里子さん、代わりに触ってみてくれ」
 「お嬢様、ちょっと失礼します」
 里子さんはそっとボクの膨らんでいる胸に手を置いた
 「うん。本物そっくりだわ」
 ボクも胸に手を当ててみた。綿で作ったものより、ずっと感触がよかった。
 「ところで太田さん?」
 「何だ?」
 「もし、美子さんが戻ってきたとき、どう言い訳するんですか?」
 「きみに身代わりを頼んでおいたと正直に言う予定だ。もちろん、きみが男だと言うことは内緒にしてね」
 「なるほど、わかりました。もうひとついいですか?」
 「なんだね?」
 ちょっと睨むようにする。
 「民宿に残したままのわたしの荷物はどうなってるんでしょうか? 取りに行ってくれたんでしょうね?」
 「ああ。間違いなくわたしの方で確保してある。この仕事が終わったら、きちんと返してあげるよ」
 「よかった。じゃあ、儀式が終わるまで頑張ります」
 「よろしく頼んだよ」
 儀式が終わった後に美子さんが戻ってきて、自分は当主になりたくなかった、誰が儀式に出たんだと言ったときどうするんだろうと尋ねるのを忘れたけれど、ボクが立ち去った後のことだから、どうでもいいやと考え、シゲさんが持ってきた夕食に舌鼓を打った。
 この頃には、シゲさんの前でも美子さんを演じることができるようになっていた。シゲさんはボクのことを美子さんだと信じて疑わない。ただ、まったく声を出さないことに少し首を傾げているようだ。

 太田弁護士が手に入れてきた人工乳房はなかなかのものだ。境目は当然わかるのだけれど、いったん接着すると飛び上がっても入浴しても外れないのだ。まるで乳房ができたように思える。
 接着剤が肌に合わない場合は使用を止めてくださいと説明書に書かれてあるけれど、そんな心配はいらないようだ。だから、最初に接着したままだ。

 次の三日間、ボクは美子さんを演じる練習とともに、里子さんには内緒で女声を出す練習をした。声の質が違うとしても、一言もしゃべらないですませるわけにはいかないと考えたからだ。
 美子さんのしゃべり方は、美子さんの行動様式を覚えるために見ているビデオで覚えた。我が儘に育ったようで、他人を傷つけるような言い方が多い。ボク自身はそんな言い方は嫌いだけど、美子さんを演じる以上はそれも仕方がない。
 練習の成果を確かめるために、里子さんに女声で声を掛けた。
 「里子さん、今日の夕食はステーキにして」
 「は?」
 里子さんはかなり驚いた顔をした。
 「お嬢様、女の子みたいな声・・・」
 「当たり前でしょう? わたし、女の子なんだからね」
 「その言い方、お嬢様そっくりだわ」
 「ステーキ、焼いてくれないの?」
 「シゲさんに頼んでくるわ」
 嬉しそうな顔をして里子さんは部屋を出て行った。そしてすぐに戻ってきた里子さんに、ボクの女声の感想を聞いてみた。
 「ふつうに女の声に聞こえる。けれど、お嬢様の声とは少し違うわ。だから、そんな声を出すのはかえってお嬢様でないと疑われてしまうわ。止めて貰った方がいいと思うわ」
 せっかく苦労したのに無駄になってしまった。まあ、人生に無駄はつきものだ。



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