第11章 いざ虎の穴へ

 いったん東京に戻って飛行機に乗った。飛行機に乗るのは怖い。高所恐怖症というわけではなく、落ちるんじゃないかと気が気でないのだ。
 昔誰かが、自動車に乗っていて事故に遭うよりも飛行機が落ちる確率の方が低いと言っていた。それでも怖いのだ。
 ボクは目を瞑り、早く着け、早く着けと祈っている。
 「お客様、どうかなさいました?」
 キャビンアテンダントの声にボクは首を横に振る。
 「いいんです。放っておいてください」
 顔を真っ青にしているだろうボクをどう思っているだろうかなんて考える余裕もなかった。

 ズドンと大きなショックがあり、そして逆噴射の轟音。そのことがボクを恐怖から救出し、元気づける。
 ボクは秋物のワンピースにコートを羽織り飛行機を降り立った。手にはビトンのバッグ。木村が手に入れてきたものだけど、恐らく紛い物だろう。グラデュエーションの入ったサングラスは一応変装のつもりだ。
 新婚旅行に行くと騙されて上っていった出発ロビーを横目で見ながら空港の外に出た。
 (バス停は?)
 周りの人の動きを見ていると、ローカル線のバス停は少し離れた場所にあるのがわかった。バッグを抱えて向かう。すぐにバスがやってきた。
 空港からワンマンのおんぼろバスに乗ったのは数人だった。それがこのバスに乗っているすべてと言いたくなるほど人が乗っていない。
 1年半前、ボクはこの路線のバスに乗ったことがある。ただ、空港からではなく、JRの駅からだ。リュックサックとスケッチブックを持って乗ったことを思い出す。それと同時に太田への増悪が沸々と沸いてきた。
 ボクはとある停留所で降りた。以前にも降りた場所だ。そして歩いてすぐの場所にある民宿の玄関ドアを開いた。
 「ごめんください。ごめんください!」
 ややあって、奥からエプロン姿の見覚えのあるおばさんが出てきた。
 「すみません。お部屋、空いてますか?」
 ボクの風体からすると、こんな民宿に泊まるようには見えなかったのだろう。おばさんは少し怪訝な表情をした。
 「だめですか?」
 「おひとり?」
 「ええ」
 少し考えてからおばさんはいいわと答えた。
 「お部屋に案内するわ。ついてらっしゃい」
 真正面の階段を上がる。おばさんは立て付けの悪い襖を引いた。
 「トイレはあそこ。洗面所はその奥隣にあるわ。お風呂は階段を上らずにまっすぐに行った突き当たりよ。宿帳を持ってくるから、荷物を置いて待っていて」
 言い残して階段を下っていった。6畳一間に押し入れだけの部屋だ。畳の上に黒塗りの入れ物が置いてあり、その中に浴衣と丹前が入っていた。
 入り口と反対側にある窓を開くと、正面に山の緑が広がっている。少し手前は田んぼ、そしてこの民宿のすぐそばを小さな川が流れている。
 (1年前は、この奥の部屋に泊まったんだな)
 何だか感慨深いものがある。
 「お待たせ。これに」
 宿帳と言うには粗末な大学ノートだ。氏名の欄に『木村小苗』、住所の欄にはちょっと考えてから以前の木村のアパートの住所を書いた。
 「電話、これしか持ってないんですけど?」
 携帯電話を見せる。
 「最近の若い方はみんな携帯しか持ってないんですね?」
 「固定電話はいらないですもの」
 「じゃあ、それでいいわ」
 携帯電話の番号を書き込む。家族への連絡が目的なら意味はないなと思う。
 「おばさん、ちょっと聞きたいことがあるんですけど?」
 「なんでしょうか?」
 「一昨年の春、ここに奥田大樹という男の子が泊まったと思うんですけど、覚えてられますか?」
 「奥田・・大樹?」
 宿帳を手に取り、ペラペラとめくる。そして、奥田大樹の名前を見つけてボクの方を見上げた。
 「この子がどうかしたんですか?」
 表情が硬くなっていた。
 「ここに泊まったって連絡が入ってから、その後行方がわからないんです」
 「どう言うご関係ですか?」
 行方不明者を捜すのはやはり親兄弟だろう。ボクは今は木村小苗を名乗っていて、木村小苗の年齢は26歳だ。だから、姉だと言いたいところだ。姓が違うのは、結婚しているからと言い訳はできる。ただ、太田たちの耳に入った場合のことも考えておかねばならない。
 もし、奥田大樹に兄弟がいないことを知っていたならば、ボクの正体を疑われる可能性がある。いや、きっとボクには兄弟がいないことを知っていたに違いない。ボクが行方不明になっても心配するものがいないことを知った上でボクをあんな目に遭わせたとボクは考えている。
 ボクの母は、不妊治療がようやく成功して35歳の時のボクを産んだ。産んだのだけれど、高齢出産がたたって腎臓を悪くし、ボクが3歳の時に腎不全で他界した。父は母の死後1年もたたないうちに高校を卒業したばかりの女性と結婚した。そんな若い継母だったから、ボクを育てようとせず、ボクは祖母に育てられた。その祖母も、ボクが高校に入ることが決まったすぐ後に心臓発作で急逝した。父もまた、ボクが高校3年の秋に肺ガンで亡くなってしまった。継母はまだ36歳だったから、すぐに再婚してしまった。そもそもボクが義理でも息子だという観念がないから、ボクのことにはまったく関心がないのだ。
 そう言うことだから、ボクはおばさんの質問に従姉ですと答えた。
 「従姉さん? そう言えば・・、ああ、思い出したわ。あの子ね。よく似てらっしゃるわ。従兄弟似って言うのかしら?」
 「大樹、小さい頃は女の子とよく間違えられたんですよ」
 これは本当の話だ。
 「だから、わたしが連れてると、妹かってよく聞かれたわ」
 ボクと奥田大樹が別人だと言うことをことさらに強調してみた。
 「いつここを出てますか?」
 「4月1日ですね」
 宿帳を指さしながら答えた。
 「本人が精算したんですね?」
 「え、ええ」
 動揺が見える。当然だ。松本が荷物を取りに来て精算し、ボクは精算には来ていないからだ。
 何故嘘をつくのか? 恐らく太田に口止めされているのだろう。
 「どこへ行くって言ってましたか?」
 「さあ・・・・」
 「ここを出た後、行方がわからなくなってるんですよね。いったい、どこへ行ったのかしら?」
 おばさんに言うでもなく、呟くように言ってみた。おばさんはかなり動揺しているようだ。
 「大樹が行きそうな場所を2、3日探してみたいんです。よろしくお願いします」
 頭を下げると、わかりましたと言い、バタバタと階段を下りていった。半分開いたままの襖の隙間を通り、そっと階段の上まで行ってみた。おばさんが電話を掛けていた。姿を見られないように聞き耳を立てる。
 「松本さんかえ? イズミ荘の和泉じゃけんど、去年、あんたが荷物を引き取りに来たことがあったじゃろう? そうじゃ。髪の長い、女の子みたいな子の荷物じゃ。あん子の従姉ちゅう娘があん子を探しに来とるんじゃよ。誰か来たら連絡をくれちゆうちょったから、電話したんよ。そうこっちゃ。うん。また電話するき」
 電話を置くのを確かめて、再びそっと部屋に戻った。そして、今度は襖をがたがた言わせながら部屋を出た。
 「おばさん! おばさん!」
 「なんでしょう?」
 「大樹、仏像とかをスケッチするためにここへ来たんだと思うんですけど、このあたりにそんなものがありますか?」
 「仏像ですか? 摩崖仏がありますけど?」
 「摩崖仏? ああ、崖に刻まれた仏像のことですね。ここから近いですか?」
 「そうね。入り口まで歩いて15分くらい。そこから、あなたの足だと30分ほど上ったところにありますよ」
 「じゃあ、行ってみます」
 「あのヒールで?」
 「いけませんか?」
 「山道だし、坂が急だから運動靴でないと無理だと思うわよ」
 わかっているけれど、知らない振りをして尋ねてみたのだ。これも、ボクがボクでないと言うことを示すためだ。
 「このあたりに運動靴とか売っているお店はあります?」
 「ここを出て左に5分ほど行った場所にスーパーがあるわ。そこなら売ってると思うけど?」
 「わかりました。行ってみます」
 バッグを取りに戻って、教えられたスーパーに行ってみた。スーパーと言っても雑貨店に毛が生えたようなものだった。少し大きめのスニーカーを買った。デザインは気に入らなかったけれど、他になかったから仕方がない。
 夕暮れが迫っていた。彷徨くのは明日にすることにして民宿へ戻った。民宿にはボクの他に数人の女性が泊まっていた。行商らしいおばさんたちと、摩崖仏やお寺などを見学に訪れた若い女性たちだ。
 午後6時に夕食が準備された。ワラビとタケノコの煮付けや煮魚と言ったものだ。ワラビもタケノコも冷凍物であまり美味しいとは言えないけれど、魚は新しい。
 「あんたも仏様見物かえ?」
 行商のおばさんがニコニコしながら尋ねてきた。いろいろ言いたくないので、ええとだけ答えておいた。

 夕食がすんで順番に入浴した。ボクが一番最後だ。身体を洗っていると、民宿のおばさんが顔を出した。
 「湯加減はどうかしら?」
 「ちょうどいいですよ」
 「そう。温くなったら言ってちょうだい」
 言い残してドアを閉めた。ボクが奥田大樹ではないかと疑って確かめに来たに違いない。民宿のおばさんは、ボクが性転換されたことを知らないと言うことだ。

 一夜が明けて、朝食に降りていくと、行商のおばさんたちはすでに朝食を終えて出かけるところだった。
 「さよなら、また会いましょう」
 声を掛けて出て行った。ボクは大急ぎで朝食をすませると、防寒用に厚手のパンストにババシャツを着込んで、セーターにジーンズ、スニーカーという出で立ちで民宿を出た。
 摩崖仏の入り口まで丁度15分だった。坂道を上る。汗が出た。それほど寒くないのに厚着をしすぎたかもしれない。
 (こんなにきつかったかな?)
 1年以上閉じこめられていたから、回復したと思っていたけれど、まだ体力は完全には元に戻っていないようだ。
 摩崖仏の場所まで40分あまりかかってしまった。摩崖仏は1年半前とまったく変わらない風情で存在していた。変わったのはボクだ。男から女へ、しかも人妻に変身したのだ。摩崖仏はボクをどう見ているだろうか?
 ゆっくりと坂道を下っていく。
 (ここか。間違えたのは)
 昼間だと絶対間違えそうもない分岐があった。どうして間違えてしまったんだろうと思いながら、左の道を下っていった。
 再び分岐に出た。下ってきた方の道が狭い。いったん下って戻ってくると、太い右に行ってしまうのは歴然だ。
 1年半前を思い出しながら、歩いていくと人家が見えてきた。建物の形状から太田の実家だとわかる。
 (結局、最初の分岐を間違えたのがここにたどり着いた原因だな)
 遠くには下りの比較的大きな道が見える。電柱などが見えないので、夜間は太田の実家から漏れる灯しか目に入らなかったのだろう。
 太田の実家に向かって歩いていく。裏の畑で鍬を使っている太田純一の父親・次郎の姿が目に入った。
 「すみません。道に迷ってしまったんですけど、向こうに見える道を行けば国道に出られますか?」
 太田次郎は鍬を止め目を上げてボクを見た。
 「そうじゃ。あの道に出て真っ直ぐに下れば国道に出る」
 言いながらしげしげとボクの顔を見つめた。
 「小父さん、わたしの顔に見覚えが?」
 「いや。似た子がやはり道に迷ってここに来たんじゃが、男の子じゃった」
 「もしかして、大樹、奥田大樹と言いませんでしたか?」
 「うん、そんな名前じゃったかな?」
 考え込みながら、やはりボクの顔を見つめている。
 「大樹、ここに来て、それからどこに行きましたか?」
 「あんた、あの男の子の何じゃ?」
 「大樹の従姉です。このあたりで行方不明になっているものですから探しているところなんです」
 「そうかい。その男の子が来たのは、丁度一昨年の春のことで、夜遅かったな。真っ暗じゃったから、泊めてやったんじゃ」
 「それはどうもすみませんでした」
 「いや、いや。困っているものを助けるのはひとの義務じゃよ」
 息子たちとは大違いだ。
 「それに、翌朝、薪割りの手伝いをしてもろうたから、いいんじゃよ」
 「大樹に薪割りなんてできましたか?」
 「ほっほっほ。へっぴり腰でな。結局は薪を運んでもろうた」
 「そうでしょうね。それから大樹はどうしました? どこに行ったかわかりますか?」
 「国道まで出て、バスで宿まで戻ると言っておった」
 「じゃあ、その後は大樹を見ていないんですね?」
 「見とらんのう」
 「そうですか。どうもありがとうございました」
 ボクは深く頭を下げて、国道への道を下っていった。

 国道にあるバス停に着いた。今日は太田次郎が太田純一に連絡する時間がなかったから、ここへは誰も来ないはずだ。時刻表を見ると、運良く5分後にバスが来る。ベンチに腰掛けて待った。
 予定時間を5分ほど過ぎてバスがやってきた。数人の年寄りしか乗っていなかった。ボクは民宿のバス停がわかるように一番前の席に座った。
 次のバス停で中年の女性が乗ってきた。乗ってきてボクの顔を見て立ち止まった。
 「あのう、失礼ですが、もしかして矢木沢のお嬢様では?」
 「えっ? 違いますよ。人違いでしょう」
 「そうでしょうね。お嬢様がこんなバスに乗るなんてこと、ないですものね。ごめんなさい」
 頭を下げながら、よく似てるわねと呟いていた。

 三つ目のバス停が民宿の前のバス停だった。
 (歩いても大した距離じゃなかったな)
 がしかし、足は相当に疲れていた。山道を歩いたせいだろう。
 「何か手がかりがありました?」
 民宿のおばさんが声を掛けてきた。
 「道に迷って、山の向こうの太田さんというお家に泊めていただいたそうです。それからここに戻ってきたんですよね?」
 「え、ええ。そんなことを言ってたわね。今、思い出したわ」
 嘘をつくのが下手だ。額に汗が滲んでいた。
 「ここを引き払って、どこへ行ったんだろう?」
 「2キロほど先にも摩崖仏があったと思うけど?」
 「2キロ先ですか?」
 「そう。今日行った摩崖仏よりも規模が小さくて、あまり人は行かないけど、もしかしたら行ってるかもしれないわね」
 「じゃあ、明日行ってみます。どこのバス停で降りたら一番近いですか?」
 「ここから五つ目のバス停で降りて、少し戻ると入り口の看板があったはずだわ」
 「五つ目で降りて戻るんですね? わかりました。あ、ところで、バスの中で矢木沢のお嬢様って言うひとに間違えられたんですけど、矢木沢のお嬢様を知っていますか?」
 「え、ええ」
 「そんなに似てます? わたし」
 「・・そうですね。かなり似てると思いますよ」
 「そうですか。一度会ってみたいな。そんなに似てるのなら」
 「お子様を産んでから体調を崩しておられるって聞いたから、会うのは無理でしょうねえ」
 (子供を産んだ? 太田純一の子供だろうな。何しろ結婚してるんだからな。しかし、式を身代わりがしたというのに、よくもまあ、そのまま夫婦になったものだ)
 不思議な気がした。

 前日と同じように、夕食を取り、入浴する。足がパンパンになっていた。
 (少なくとも3人がボクを目撃している。矢木沢美子に似た女性が奥田大樹を捜してうろうろしているとの情報が太田の耳に入っただろうか?)
 太田がボクに接触してくるかどうかわからないし、接触してきたときどうするかまったく決めていない。五里霧中もいいところだ。
 (ともかく接触してきたら、矢木沢家が今どうなっているか正確に把握しよう。その上でどうするか決める。ひとつ問題がある。矢木沢美子が太田純一を愛していて、矢木沢家の財産をすべて自由にされても何も文句がないと言ったときだ。そうなると、ボクへの仕打ちだけが断罪の理由になるのだけれど・・・)
 女にされたこと自体に対する恨みは薄れている。けれど、その過程が問題なのだ。あの屈辱を思い出すと涙が出る。
 (ひと言文句だけは言ってやらないと)
 すまなかったと素直に頭を下げられたらどうしようなんて考えているボクはかなりお人好しだ。

 民宿でじっと待っていてもしょうがないと考え、翌日は民宿のおばさんに教えて貰った摩崖仏を見学に行った。デザインへの興味はまだ捨てていない。
 看板から200メートルほど入った崖にその摩崖仏はあった。真ん中に少し大きな仏様があり、左右にやや小さな仏様が掘られていた。三体とも風化が進んでいて鑑賞に堪えなかった。
 (あああ。来て損しちゃった)
 ガッカリして国道へ戻り、バス停へ向かって辺りを見回しながら歩いていった。バス停が見えてきたとき、向こうから走ってきた車がボクのそばを通りすぎてから急ブレーキを掛けた。
 何事だろうかと振り返ってみると、助手席から中年の女性が飛び出てきた。
 「お嬢様、お嬢様。こんなところで何をなさってるんですか?」
 この女性には見覚えがある。矢木沢家の厨房で働いている女性だ。
 (名前は何だったっけ? カタカナ二文字だったと思うけど・・・)
 「お嬢様? どうかされたんですか? こんなところをほっつき歩いて。また病気がぶり返したんですか?」
 (またとはどういう意味だ? 美子は何かの病気を持っているのか?)
 「あのう。どなたかとお間違えでは?」
 ボクは女性に背を向けてバス停に向かって歩く。
 「ホントに美子お嬢様ではないんですか?」
 小走りにボクの前に走ってきてボクの顔をまじまじと見つめる。
 (そうだ。思い出した。シゲさんだ)
 「わたしは木村小苗と言います。昨日も美子さんとか言うひとに間違えられたんですけど、そんなに似てるんですか?」
 「へ? は? そうですか? これはまた、世の中にはそっくりな人がおるもんじゃなあ。ビックリした。どうも失礼しました」
 シゲさんは恐縮して頭を下げた。バス停に向かおうとして、一応話だけしておくことにした。
 「あのう。わたし、行方不明になった従弟を捜しています。奥田大樹と言います。背丈はわたしくらいで、髪の毛を伸ばしているから女の子に間違われることが多いんですけど、心当たりはありませんか?」
 「さあ?」
 シゲさんには女装した姿しか見せていない。覚えがないのは当たり前だ。
 「もし、何かありましたらしばらくイズミ荘という民宿にいますから連絡をお願いします」
 ボクは頭を下げ、やってきたバスに乗り込んだ。シゲさんが屋敷に戻って太田に話すことを期待して。

 いくら待っても連絡がない。奥田大樹のことを探し回っている矢木沢美子によく似た女性がいても気にも留めないと言うことなのか? それともあえて無視をしているのか?
 ボクは最後の手段に出た。矢木沢の屋敷に行くのだ。行って太田と直接対決する。それしか手はないと考えた。
 民宿の会計を済ませ、タクシーを呼んで矢木沢の屋敷へ向かった。タクシーの中でボクは携帯電話を握りしめた。木村から何度も着信があった。どこにいる、早く戻ってきてくれとの留守番メッセージも数え切れないくらいだ。メールも毎日のように入っていた。
 (必ず帰るから)
 携帯電話にキスしてから、タクシーを降りた。
 「ごめんください! ごめんください!」
 はあいと返事があって、シゲさんが姿を現した。
 「この前はどうも。木村小苗です。太田純一さんはおられますか?」
 「は、はあ。ご主人のことですね?」
 「はい。弁護士をされている」
 「お呼びしますわ」
 シゲさんは出てきた方とは反対方向に去っていった。すぐに大きな足音がした。そして太田純一が姿を現した。ボクの顔を見て、一瞬息を飲み、そしてゆっくりと言った。
 「わたしに何かご用ですか?」
 「わたし、木村小苗と言います。従弟の奥田大樹を捜しています」
 「奥田大樹? 知らんな」
 「知らないはずはありません。あなたの実家から国道に出たところにあるバス停で、あなたが大樹を車に乗せたという人がいるんです」
 これはボクのはったりだ。近くにあった雑貨店の中に人がいたかも知れないから、乗ってくると思った。
 「奥田大樹という名前かどうか知らないが、あのバス停のベンチに座っていた若い男を民宿まで送っていった記憶があるな」
 そう逃げたか。弁護士だけあって、頭の回転が速い。
 「その民宿って、イズミ荘のことでしょう? 大樹はイズミ荘には戻ってきてないって言ってたわ」
 これももちろん嘘なのだが、太田は顔を顰めチッと舌打ちした。
 「玄関先では話も出来んな。奥で話をしようか?」
 「もちろん、望むところです」
 ボクはヒールを脱いで上がった。
 「シゲさん、お茶を頼むよ。二つね」
 かしこまりましたと返事をしてシゲさんは厨房方向へ消えた。ボクは太田について応接室に入っていった。
 応接室で太田はボクの顔を穴が空くほど見ている。
 「わたし、あなたの奥様によく似ているそうですね?」
 「ああ、そっくりだ。生き写しと言ってもいい」
 「一度お会いしてみたいわ」
 「そうだな。お茶を飲んでからにしようか?」
 シゲさんが緑茶を持ってきた。苦くかつ甘いお茶だった。
 「それでは美子に会わせてあげよう」
 太田が立ち上がった。歩いていく方向からすると部屋は美子の部屋のようだ。
 「あの店の中からはバス停は死角になって見えないんだがな」
 突然そう言うと、太田が振り返った。同時に鳩尾に痛みを覚え、ボクは気を失った。



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