第10章 偽りの幸せ

 太田純一に復讐しなければならない。無理矢理女にされ、精神病院に監禁されて危うく殺されそうになったのだから。
 太田純一の罪はそれだけではないだろう。恐らく矢木沢家の財産を横取りしているはずだ。
 本物の矢木沢美子はどうなっただろうか? もしかして、財産を奪ったとたん、何らかの手で殺されてはいないだろうか? それも知りたいところだ。
 どうやって、これらの難題を達成するか、方法が思いつかない。ただ、矢木沢家の周辺を探らなければならないことは確かだ。
 太田純一に見つかったらどうするか? そのために木村と結婚したのだ。今やボクは木村小苗だから、他人のそら似で通すことができるだろう。何しろボクは死んだことになっているのだから。
 運転免許証の名義を田中小苗から木村小苗に変えておかなければならないけれど、再発行して貰ったばかりなのに、変更届をするのは躊躇われた。
 (1、2週間待ってから変更届を出そう。その間は木村といてやろう)
 ほとぼりを冷ますにもいいだろうと思ったのだ。

 ウエディングホールからの帰り道、木村は新婚旅行に行こうと言い出した。
 「もちろんわたしも行きたいわよ。でも、明日は静岡の病院に面接に行かなければならないんでしょう?」
 「ああ、そうだったな」
 「面接が終わってからにしましょう。その日から働けってことはないでしょうから」
 「うん、そうしよう」
 ともかく木村は嬉しそうで、油断をしたら、行き交う人たちにボクと結婚したと触れ回るような勢いだ。
 そして夕食が終わるとベッドの中に直行した。セックス自体、ボクも嫌いじゃない。フェラチオをするのも、クンニをされるのも好きだけど、あの貫かれる瞬間が好きだ。ズブズブとボクの奥深くに入ってきただけで行きそうになる。
 膣の中を激しく擦られていると、次第に上ってくる。ゆっくりとそして深い快感がボクを包み込む。男としてのセックスはしたことがないけれど、こんな快感は得られないだろうと思う。
 「ああん・・・」
 木村がボクの中で爆発した。気持ちがいい。このまま死んでしまってもいいくらいだ。

 一夜が明けた。あそこが痛い。新婚第1日目だということで、木村の頑張りようはすごかった。一晩に3回もするなんて初めてだった。
 面接は午後1時だったけれど、遅くなってはいけないので、大急ぎで朝食の準備をして一緒に食べた。
 「ひとりで行ける?」
 「一緒に行ってくれるか?」
 大きな図体をしているのに、気が小さい。ついて行ってやることにした。

 新幹線を降りて駅前からバスに乗る。周りに建物がほとんどなくなったところに木下精神病院はあった。
 「午後1時にはちょっと早いわね」
 時計は正午を回ったばかりだった。
 「このあたりには食堂らしいものがないね。どうする? あそこにあるコンビニで弁当でも買おうか?」
 「そうね」
 駅にあるレストラン街で食べてくればよかったと後悔したけれど、昼食を食べるには早いと判断した結果だった。
 コンビニで弁当とお茶を買い、病院の庭、恐らく患者用の散歩のための広場にあるベンチに腰掛けて食べた。
 「少し早いけど、受付に来たことを伝えておいた方がいいわよ」
 12時半になって、木村を急かせて受付に紹介状を提出させた。
 「人事課長がすぐにお会いできるそうです。真っ直ぐ進んで、右に曲がったところにある第2会議室へどうぞ」
 受付嬢が電話を切りながら言った。
 「真っ直ぐ進んで右に曲がったところにある第2会議室」
 木村がぶつぶつと言いながら歩き始めた。怪しいので部屋までついて行くことにした。案の定、木村は左に曲がろうとする。
 「剛! 右はお箸を持つ方よ」
 「あ、ああ。そうか。右って言ったっけ」
 どうやら緊張すると駄目になるようだ。外で待っていようと考えていたけれど、そばにいることにした。
 第2会議室のドアをノックする。返事はない。ドアを開いて中に入ろうか、どうしようかと躊躇っていると、奥から急ぎ足でやってくる人物が目に入った。
 「木村さんかね?」
 尋ねるところを見ると、この人物が人事課長らしい。
 「はい、そうです」
 ボクが答えると、その男は首を傾げた。
 「すみません。木村剛はこっちです。わたし、付き添いできました」
 「付き添い? いい大人が?」
 眉を顰めた。
 「いえ。夫は緊張すると舞い上がってしまうものですから」
 「そんなこと、ないよ」
 そう言う木村の横腹を肘でつついた。
 「よろしくお願いします」
 ボクは頭を下げた。
 「奥さんね。まあ、いいでしょう。どうぞ、中に入って」
 中に入って並んで椅子に腰掛けた。人事課長は紹介状をじっと見ている。
 「太田先生の紹介ですし、人手がなくて困っていたところです。来週、来月の一日からということでよろしいでしょうか?」
 「はい。仕事はどんな?」
 「看護師長を呼びましょう。ここで待っていてください。それから、一日までに提出して貰わなければならない書類がありまするから、後ほど事務室に寄ってください」
 「あのう、事務室はどちらでしょうか?」
 「この先です。すぐにわかりますよ」
 そう言い残して人事課長は会議室を出て行った。
 「面接ってあれだけかな?」
 「いいじゃないの。いろいろ聞かれなくて」
 「そうかな?」
 木村はちょっととろいから、何事もなく採用されてよかったと思った。

 15分ほど待たされて看護師長がやってきた。痩せぎすの、意地悪姑のような感じの女性だった。
 人事課長から貰ったらしい紹介状のコピーを一瞥してから言った。
 「閉鎖病棟の方は荷が重いと思いますから、開放病棟の患者の世話をやって貰いましょう」
 かなり馬鹿にしたような言い方だ。にわか妻としても、ちょっと頭にくる。
 「お、俺。前は閉鎖病棟にいたよ。閉鎖病棟でも大丈夫だよ」
 「今回は開放病棟です」
 きっぱりと言った。
 「体格がいいから、力仕事が中心になると思います。いいですね?」
 頭がないから、体力でと言うことだろう。
 「頑張ってください」
 「は、はい」
 「勤務は午前8時半からですが、8時には出勤してください。白衣は当日支給します」
 「夕方はいつまでですか?」
 「午後5時半です。3ヶ月間は、見習い期間、その後問題がないと判断されれば、本雇用になります。さらに夜勤も入りますので、そのつもりで。それでは一日に会いましょう」
 看護師長はさっさと出て行ってしまった。人手がいるとは言っていたけれど、紹介状を見てあまり役に立たないと判断したのかもしれない。そんな気がした。

 事務室に寄って書類を貰って木下精神病院を退出した。
 「採用が決まったんだから、こっちでアパートを見つけないとね」
 「あ、そうだね」
 コンビニの前にある公衆電話に備え付けられている電話帳で不動産屋を探して電話を掛けた。丁度いい物件がありますよと言われて、コンビニの前で待つことになった。
 10分ほどたって、白塗りの車がやってきて、木村さんですかと声を掛けてきた。
 「そうです」
 「案内しましょう。乗ってください」
 車に乗り込むとすぐに走り出した。
 「ご夫婦で?」
 ハイとボクと木村が同時に答える。
 「美男美女の組み合わせとは木村さん方のことですな」
 借りて貰おうとの魂胆だろうと思うけれど、そう言われて悪い気はしなかった。

 10分ほど走った場所にある2階建てが案内された物件だった。各階に3部屋ずつあるもので、税金逃れのアパート経営が見え見えのものだった。
 「2階の手前とその奥にある真ん中の部屋が空いてるんですがね。部屋の構造は少し違いますが、基本的には同じですね」
 手前の部屋の鍵を開いた。狭い三和土に作り付けの靴箱、その向こうにダイニングキッチンがあり、右手は洗面所にトイレ、浴室のユニットがある。その奥に6畳二間という構成だ。
 「ダイニングキッチンが広いね」
 「そこが売りでして」
 一部屋あるようなものだ。
 「気に入ったよ。ここにする」
 木村は笑顔で不動産屋に握手をしようとする。
 「真ん中の部屋は見なくていいのですか?」
 「向こうも気に入ったら、どっちを選んでいいのか困るだろう?」
 「あ、なるほど。では、こちらのお部屋でと言うことで。会社に戻って契約書を」
 そう言うわけで住むところも簡単に決まってしまった。

 真っ直ぐ東京駅へは向かわずに途中下車して伊豆へ向かった。伊東温泉で、旅館案内に飛び込んで旅館を世話して貰った。
 「いらっしゃいませ。新婚でございますか?」
 小さな手荷物しか持っていないのに、部屋に案内された仲居がボクたちにそう言った。
 「どうしてわかったんですか?」
 「ふふふ。それは、長年の経験で」
 「経験でわかるものなんですか?」
 「だって、おふたりともとっても幸せそうな顔をしてらっしゃるもの。ただの恋人同士ではないことくらい、誰にだってわかりますよ」
 ボクたちは顔を見合わせた。木村は確かに幸せがいっぱいという表情をしている。鏡を見ると、ボクの顔も言われるとおり幸せに輝いていた。偽りの結婚のはずなのに。
 夕食の前にお風呂へどうぞと言われ、浴衣に着替えた
 「温泉なんて、久しぶりだわ」
 家族風呂にふたりで入った。木村の仕草が何となくおかしい。その理由はわかっている。勃起しているからだ。
 「ふふふ。元気なのね?」
 「美穂のそんな姿を見ているからだよ」
 「美穂じゃないでしょう? 小苗よ」
 「美穂でなれてるから呼びにくいよ」
 「じゃあ、ふたりでいるときだけは美穂でいいわ。外でわたしを呼ぶときは小苗よ。間違えないでね」
 「面倒くさいな。ホント、面倒くさいよ」
 木村のことだから、いくら釘を刺しても外でもボクのことを美穂と呼ぶだろう。ちょっと考え、美穂は通称と言うことにしようと思いついた。普段は美穂で、正式な書類などは小苗にすればいいのだ。静岡に引っ越すのだから大丈夫だろうと考えた。
 夕食に舌鼓を打った後、ボクたちは早速セックスを始めた。外国映画で見るようなディープキス。木村の舌がボクの身体を這い回る。舌先がクリトリスをすごい早さで揺さぶる。
 「はあん、はん、ああん」
 堪らない快感が身体を走り向けていく。こんな快感、男だったら経験できないだろう。朦朧としながらフェラチオをする。ちょっと硫黄の匂いがする。温泉の成分が残っているのだ。ボクの舌の動きに反応してぴくぴく動く。感じてくれていると思うと嬉しい。
 仰向けになっている木村の上に這い上がっていってキスしながら右手で木村の隆起をボクの入り口にあてがう。そして腰を沈めていった。
 「はうう・・・・」
 何度やってもこの瞬間がいい。奥まで達したことを確かめるとボクはゆっくりと腰を上げ、そして再び腰を沈める。繰り返す。繰り返す。徐々に速度を速めながら。
 「美穂、好きだ。愛してる。俺から絶対に離れないでくれ」
 心の中を見透かされたようでどきりとした。
 「離れないでくれよな」
 ボクの動きがおかしくなったのを感じたのか、木村は繰り返す。
 「死ぬまで一緒よ」
 ボクはようやくそう口にした。

 午前2時過ぎまで絡み合っていた。木村は、その5時間あまりの間に2度ボクの中に射精した。結合して最初の5分目と最後の時だった。ボクとセックスすることを楽しんでいただろうけれど、絶頂は恐らくその2回だけだっただろう。一方ボクの方は、何度も行った。もちろん、木村がボクの中に射精する瞬間に一番深い快感を覚えたけれど、行って、行って、行きまくった。このときばかりは、太田と手術をした医者に感謝したくらいだった。
 朝が明けて、布団を片付けに来た仲居が、ずいぶんとお励みだったようですねとボクと木村の顔を見ていった。
 恥ずかしかったけれど、新婚さんなんだからと心の中で言い訳した。
 「もう一晩泊まろうか?」
 木村がボクの顔色を窺うようにして尋ねた。
 「いいけど、同じ旅館に泊まるのも脳がないわね」
 「じゃあ、もう少し下って別の旅館に泊まろう」
 そう言うわけで、さらに二日間旅館に泊まり、温泉と料理を、そしてセックスを楽しんだ。

 木村のアパートに戻るとすぐに転居の準備を始めた。狭いけれど、転居となると結構荷物が多い。荷造りに3日かかってしまった。
 「美穂、向こうに行ったらベッドを買おうか?」
 「部屋が狭くなるわ」
 「鏡台は? 化粧をするのに必要だろう?」
 「とりあえずはいいわ。向こうに行って、必要なものだけを買いましょう」
 木村のものならともかく、去っていくボクのものを買うわけにはいかないのだ。
 「それじゃあ、準備は終わりだな」
 「そうね。わたしは今から免許センターに行ってくるわ」
 「免許センター? 何をしに?」
 「ほら。あなたと結婚して姓が変わったでしょう? 変えて貰わないと」
 「ああ、そうか。俺も一緒に行くよ」
 「じゃあ、一緒に行って、夕食は外にしましょう。作る道具が荷物の中だから」
 一緒に出かけることに懸念がなかったわけではない。知った人間のいるかもしれない場所で美穂と呼ばれては困るからだ。ただ、その点はもう一度念を押して出かけたのは言うまでもない。

 免許センターでは、つい最近再発行したばかりなのにと不審げな顔をされた。
 「再発行を受けてすぐに」
 ここで声を落として女性職員に耳打ちした。
 「できてるのがわかったんです。で、結婚しちゃったものですから」
 木村の方を振り返る。木村はボクと女性職員を見てニタニタ笑っている。
 「そうですか。それなら仕方ないですね」
 こんな時、女は便利だ。それにしてもボクはよく嘘をつく。死んだら、閻魔様に舌を抜かれそうだ。イヤきっと舌を抜かれる。そして、地獄に堕ちる。
 (ボクだけ地獄には行かないぞ。太田も一緒だ)
 そうしなければ死ぬに死にきれないと思っていた。

 引っ越しが済んだ翌日から木村は木下精神病院へ出勤していった。
 (大丈夫かなあ)
 心配しながら、大家さんとご近所に挨拶回りをした。すぐに姿を消すボクだけれど、形だけは整えておきたかったからだ。
 引っ越しは、後の整理が大変だ。結局のところ、綺麗に片付いたのは引っ越ししてきて1週間目のことだった。
 (太田精神科病院を脱出して2週間以上たつなあ。そろそろほとぼりが冷めた頃だろうけど・・・・)
 木村の笑顔を見ると、つい留まってしまう。

 日に日に木村と離れがたくなっていく。それは、木村があまりに純で素直でいい奴だから、黙って去るのが悪いと思ったからだ。長く一緒にいればいるほど別れられなくなることはわかっている。わかっているのに、ずるずると時間だけがたっていった。

 気がついたときには、木村と暮らし始めて半年がたっていた。ボクは木村との結婚生活に安住し、もうこれでいいとさえ思い始めていた。
 けれど考え直してみると、もしあの時脱出できていなかったならば、ボクは今頃精神異常者としてあの閉鎖病棟に閉じこめられ、性的虐待を続けられていたか、それとも殺されて土の下だったかもしれないのだ。
 現状を容認するにしても、太田が平然として暮らしていることは許すことができないと思った。
 ボクは後ろ髪を引かれる思いで出発することにした。

『剛さんへ
 お仕事お疲れ様でした。夕食は冷蔵庫の中にあります。レンジでチンしてくださいね。
 ある事情があって、どうしてもやらなければならないことがあります。
 しばらくあなたの前から姿を消しますけれど、必ず戻ってきます。
 約束は守ります。今まで約束を破ったことはないでしょう? 待っていてください。
 わたしのわがままを許してください。
 愛しています。
 美穂』

 『愛しています』のフレーズを自然に書いてしまった。書き直そうと思ったけれど、それがボクの正直な気持ちだと悟った。だから、消さずにそのままテーブルの上に置いて部屋を出た。
 駅に向かって歩く。消えようとしていた復讐の火が再び燃え上がってくるのを感じた。
 (太田。待っていろよ。この手で断罪してやる!)
 必ず戻るという約束を守れるだろうかとの一抹の不安を抱きながら、ボクは歩みを進めていった。



inserted by FC2 system