第1章 乱入してきたきた大男

 ぐずっていた丞がようやく眠ってくれた。
 (何度見ても可愛いわね。早く大きくなって、パパみたいに立派になるのよ)
 わたしはそっと立ち上がり、足音を立てないように部屋の出口に向かった。
 「あら? なにかしら?」
 部屋の外から言い争う声が聞こえてきた。
 「ちょっとあなた! 待ちなさいよ!」
 里子さんの声だ。どかどかと大きな足音が近づいてくる。
 「待ちなさいって言ってるでしょう! 勝手にひとのうちに上がり込んで! 警察を呼びますよ。待ちなさいって言ってるでしょう!」
 ガタンと隣の部屋のドアが乱暴に開かれる音がした。
 「旦那様! 旦那様! 早く来てください!」
 金切り声で里子さんが叫ぶ。同時に、わたしの部屋のドアが開いた。鬼のような形相をした大男がぬっと入ってきて、驚きと恐怖でわたしは後ずさった。
 「美穂! やっぱりここにいたんだな」
 急に柔和な表情になって男が近寄ってきた。
 「あなた、誰なの?」
 「俺だよ。剛だ。わからないのか? 美穂」
 男がわたしの両肩をがっしりとつかんで叫ぶ。
 「わたしの名前は美子よ。美穂なんて名前じゃないわ」
 「違う! おまえは美穂だ!」
 男がわたしを抱きしめた。バタバタと大きな足音が響き、夫が駆け込んできた。
 「旦那様。あの男が!」
 「貴様! 何をやってる! 妻を放せ!」
 夫が男の肩をつかんでわたしから引き離そうとした。と、男は振り返って夫にパンチを食らわした。夫は殴られた弾みで後ろに倒れ尻餅をつく。
 「美穂は俺の妻だ。おまえの妻なんかじゃない!」
 わたしの手を引いて外に出ようとする。わたしは抵抗した。
 「わたしは美穂なんかじゃないわ。わたしは美子よ」
 夫は顎を押さえながら立ち上がり、両手を開いて男の前に立ちふさがった。
 「本人が美穂って女性じゃないと言ってるだろう? 何を血迷ってるんだ」
 「いや、この人は美穂だ。嘘を言ってるんだ。なあ、美穂。そうだろう?」
 「違います。何度も言いますけど、わたしは美穂なんて名前じゃありません」
 「そら、みろ。妻の手を放して、さっさと出て行け。すぐに出て行けば警察沙汰にはしない」
 「どうして嘘をつくんだ! 美穂! 美穂! 俺を忘れたのか?」
 男は膝を突き、涙声でわたしに訴える。
 「ぎゃーっ!」
 騒ぎに目を覚ました丞が泣き始めた。わたしは男の手を振り払って丞に駆け寄って抱き上げた。
 「よしよし。いい子だから泣かないで」
 男は驚いた表情になって小さな声で尋ねた。
 「その子は?」
 わたしたちの子だと夫が叫んだ。
 「そんな馬鹿な」
 「そうだろう。おまえの妻に子どもを産めるはずはないんだ」
 「なに? 今、何と言った?」
 夫は口をつぐみ狼狽えた表情を見せた。
 「どういう意味だ! 俺の妻が子どもを産めないとは? 何か美穂のことを知ってるんだな!」
 「やかましい! 何も知らん! とっととこの部屋を出て行け!」
 「イヤ、何か知ってるはずだ。知ってるという顔をしている」
 男は食い下がる。
 「旦那様、警察を呼びましょうか?」
 里子さんの声に、夫は首を横に振った。
 「警察はいい。こんなことくらいで呼ぶことはない」
 「警察を呼んでは都合の悪いことがあるんだろう?」
 なおも男は食い下がる。
 「おまえが出て行かないのなら、呼んでもいいんだ。早く出て行け」
 「奥さん。ホントにあなたは美穂ではないんですね?」
 男が嘆願するような目で言った。わたしは首を横に振った。男は諦めたように部屋を出て行った。
 「ったく、とんでもないやつだ。美子。大丈夫か?」
 「ええ」
 「あんな奴は二度とここへは入れないようにしておく。心配するなよ」
 「はい、あなた」
 夫はわたしの頬にキスして部屋を出て行った。

 再び丞を寝かしつけてから、昼食のため食堂へ行った。
 「シゲさん、うちのひとはどこへ?」
 「旦那様は急用ができたと言って出かけられました」
 「そう」
 いつもは行き先を告げて出て行くのにおかしいなと思いながら、食卓に着いた。先ほどの大男のことを思い出す。優しく澄んだ大男の目を。
 (わたしのことを美穂と呼んだけど、美穂という女性、わたしとよく似てるのかしら?) 「ハイ、お嬢様。今日はオーソドックスなケチャップを使ったスパゲティーにしました。いかがでしょう?」
 差し出された皿に載っているスパゲティーを一筋口にする。
 「うん。美味しいわ」
 シゲさんはにこりと笑みを浮かべた。シゲさんは本当に料理が上手だ。
 「ところでお嬢様?」
 「なに?」
 「先ほどの男のことですけど」
 「あんな男、思い出したくもないわ」
 気になってはいたけれど、そう答えた。
 「美穂とか言う女性を捜しているみたいですけど、あの女性は亡くなったはずですけど・・・」
 「えっ? 亡くなった?」
 「はい。去年、向こうの谷にある林の中で首をつってるのが見つかった女性だと思うんです」
 「どうしてそんなことがわかるの?」
 「だって、その女性に、わたし、一度会ってるんです」
 「どこで? どこでその女性に会ったの?」
 「わたしの家の前にあるバス停の近くです」
 「どんなひと? わたしに似てるの?」
 「ええ。それはもうそっくりで、お嬢様と間違えたくらいです」
 「そんなに似てるの?」
 シゲさんは大きく頷いた。
 「首を吊って亡くなったことはあの男の人も知ってるわね?」
 「新聞に出てましたからね」
 「じゃあ、どうして、亡くなった奥さんのことを探すんでしょう?」
 「さあ。愛した人が急にいなくなって、死んだことが信じられないんじゃないでしょうか?」
 「そうね。そうかもしれないわね」
 「お嬢様。延びてしまいますわ。早くお食べになって」
 わたしは頷き、フォークを口に運んだ。

 夫はなかなか帰ってこず、戻ってきたのは午後7時を回った頃だった。
 「あなた、どこへいらしていたの?」
 「仕事だ」
 突っ慳貪に答える。こんな夫は初めてだ。今日は仕事は休みのはずなのにと思ったけれど黙っていた。
 「飯は?」
 「できてます。シゲさん! お食事にして!」
 かしこまりましたと返事があった。スーツを脱がしてやり、部屋着を渡す。夫はかなり不機嫌な様子だ。今朝の男と関係があるのだろうかといぶかった。

 今日の夫はいつもより激しい。まるでわたしをレイプするかのようだ。
 (レイプ? むかしレイプされたような気が・・・・。でも、そんなはずはないわ。夫とは恋愛結婚だし)
 けれど、猿ぐつわをされ、手足を縛られて犯されたことがあるような気がするのだ。
 (何故だろう? あり得ないのに・・・・)
 「美子、美子。おまえを愛してるぞ。俺から離れるなよ」
 夫が呻くようにして言い、そしてわたしに愛をくれた。
 「ああん。あなた。愛してるわ」
 その言葉が声になったかどうかわからない。快感でわたしの意識は宙に舞っていた。朦朧としながら、夫ではない男に、同じような言葉を囁かれた覚えがあると感じた。
 (夫が初めてのひとで、夫以外の男性とはつきあったことはないのに、どうして?)
 レイプされたような記憶といい、どうしてそんなことを感じるのかわからなかった。

 今日は夫は朝から仕事で事務所に出かけていった。昼食を終えて丞をお昼寝させる。寝る子は育つと言うけれど、あの人はあまり背が高くない。大きく育ってくれたらいいのにと思う。
 部屋をそっと抜け出して、厨房へ向かった。最近毎日のように厨房に行っている。シゲさんにお料理を習うためだ。自分で作った料理を夫に食べさせてあげたいからだ。
 「お坊ちゃま、寝ましたか?」
 「ええ。ぐっすり」
 「じゃあ、今日は八宝菜を作りましょう」
 シゲさんがわたしの目の前に材料を並べた。

 下ごしらえだけで疲れてしまった。夫が戻ってきたら最後の仕上げをすることにして、丞の様子を見に部屋に戻った。
 ドアを開くと、丞のそばに男が、あの大男が立っていた。
 「あ、あなた。どこから・・・」
 男はわたしの方を向いて、人差し指を唇の前に立ててシーッと言った。
 「何をしに来たの? もうここには用事はないでしょう?」
 「本当にあなたは美穂じゃないのか?」
 「美穂さんというあなたの奥さんは亡くなったんでしょう?」
 男は視線を逸らせた。
 「美穂と言われた遺体を一目見たときにわかったんだ。あれは美穂じゃない。美穂によく似た別人だ」
 「どうしてそんなことを言うの? イズミ荘という民宿に泊まったときと同じものを着ていたらしいし、免許証も奥さんのものだったって聞いたわ」
 「そんなもの、着せ替えればいいことだ」
 「誰がそんなことをすると言うの?」
 「わからない。わからないけど、あれは美穂じゃない」
 男はわたしの顔をじっと見た。
 「あなたは美穂じゃないというけれど、俺の目が、俺の心があなたは美穂だと訴えている。本当にあなたは美穂じゃないのか?」
 「何度言ったらわかるの? わたしは矢木沢美子よ。結婚していて子どももいるわ」
 「ボクの妻だとされた遺体が矢木沢美子さんで、あなたが美穂だという可能性は?」
 「バカなことを言わないでよ。もう出て行って!」
 丞が寝返りを打った。
 「これに見覚えは?」
 男は一枚の便せんを差し出した。男に書いた書き置きらしい。
 「必ず戻ると書いてある。美穂は約束は守る女だ。自殺するはずがない」
 「事情が変わったのかも知れないわ」
 男は溜め息を吐き、便せんをわたしから取り上げた。
 「最後にひとつだけ聞いておきたい」
 「ホントに最後ね?」
 「ああ」
 「いったい何を聞きたいの?」
 男は少し躊躇い、咳払いをしてから言った。
 「あなたの・・恥ずかしいところの、左の内股に痣はないか? 親指の頭ほどの痣だ」
 「そんなものないわよ!」
 「ベンツのマークみたいな痣なんだ。ホントにないのか?」
 「ないって言ってるでしょう! 帰って! もう二度と来ないで!」
 男は悲しそうにわたしの顔を見て、項垂れたまま庭に通じるガラス戸を開いて出て行った。
 わたしはすぐに鍵を閉めてカーテンを引いた。
 (ったく。言うに事欠いて、内股にベンツのマークだなんて)
 腹が立って、ベッドを蹴飛ばしてしまった。
 「ママ」
 「丞。起こしちゃったの? ごめんね。おしっこに行きましょう」
 丞を抱いてトイレに移動した。

 丞はリビングの中を這い回っている。いつ歩くのだろうかと楽しみだ。
 「里子さん、ちょっと丞をお願い」
 わたしはトイレに入った。小さな鏡を持って。あの男の言葉が気になったのだ。お小水をすませてから、そっと鏡であそこを覗いてみた。
 (あの男の言うとおりの痣があったらどうしよう?)
 不安になりながら、鏡を見た。
 (やっぱりないわ。あるはずがないわ)
 ホッとして鏡をスカートのポケットに収めてリビングに戻った。

 わたしが初めて作った八宝菜は大好評だった。夫はうまいうまいと言って全部平らげてくれた。
 夕食が終わり、わたしは浮かれ気分で入浴している。
 「里子さん! 丞をお願い!」
 真っ赤になった丞を里子さんが連れて行く。わたしは両足を伸ばしてバスタブに浸かった。
 「ああ、いいお湯。気持ちがいいわ」
 ゆっくり身体を温め、バスタブから出た。身体を拭きながら、ふと気になって鏡にあそこを映してみた。
 「えっ!」
 ベンツのマークが見えたような気がしたのだ。わたしが脱ぎ捨てたスカートはすでに片付けられていたけれど、ポケットの中に入れていた鏡が洗面台の上に置かれていた。
 鏡をかざす。胸がどきどきしてきた。
 (ある。ベンツマークのような痣が。昼間はなかったのに・・・)
 じっと見つめていると、痣が淡くなっていった。わたしはもう一度バスタブの中に身体を沈めた。そして、外に出てすぐに鏡で確かめた。ベンツマーク様の痣がはっきりあった。
 (身体が温まると出るのね。あの男、わたしにこんな痣があるのをどうして知ってるの? しかも、こんな場所にあるのを・・・・)
 身体を拭き、ネグリジェを着て、里子さんから丞を受け取って寝かしつけたあと、わたしはもう一度鏡を手にした。痣はまったく見えなくなっていた。
 (身体が温まると見えるようになるみたいね)
 わたしは夫の書斎のドアを開いた。夫はデスクに向かって書類を整理していた。
 「まだお仕事なの?」
 「もうすぐ終わる」
 「弁護士なんて、もう止めたら?」
 「止めないよ。おまえの財産を食い物にしてると思われたくないからな」
 「食い物なんて・・・」
 「弁護士は俺の子どもからの夢なんだ。だから、一生止めないつもりだ」
 「そうなの。わかったわ。向こうで待ってるわ」
 早くわたしの想像を確かめたかったけれど、相手がいることだから仕方がない。リビングでテレビを見ながら夫の仕事が終わるのを待った。
 夫がリビングに姿を現したのは午後10時を回った頃だった。
 「疲れたな」
 ブランデーを取り出してグラスに注ぐ。
 「あなた。ねえ。もう寝ない?」
 甘えた声で誘う。
 「昨日したばかりだぞ」
 「駄目なの?」
 にやりと笑って、夫はグラス半分ほどのブランデーを飲み干してわたしの手を引いた。

 わたしは夫のペニスを握りしめて懸命に舐めている。わたしのあそこも夫の舌が蠕いている。フェラチオ自体は好きだけど、シックスナインはあまり好きではない。集中できないからだ。
 夫の舌が離れ、指が入ってくる。指を出し入れしながら、クリトリスを舐める。すごい快感にわたしは動きを止めてしまった。
 「あん、駄目!」
 後ろの方に指を入れようとしたのだ。
 「駄目だってば!」
 わたしは腰を振って逃げた。
 「いいじゃないか」
 「いや! もう止める」
 わたしは夫から離れた。
 「ホントに止めていいのか?」
 「意地悪!」
 「すねた顔が可愛いよ」
 「バカ!」
 笑いながら夫がわたしに覆い被さってくる。唇を合わせ、舌を絡め合う。
 「はうっ!」
 入ってきた。満たされていく。夫は舌をわたしののどの奥まで入れてくる。膣とのどが同時に犯される。
 しばらくそうした後、夫はわたしに四つんばいを命じて後ろから入ってくる。深く入るから好きだけど、夫の顔が見えないから不満だ。
 そんなわたしの気持ちがわかっているのか、最後はやっぱり正常位で、わたしの顔を見つめながら最後を迎えてくれた。
 しばらくの間繋がったまま時間を過ごす。夫はその間に何度かわたしにキスをする。時々快感が身体を走り抜けていく。そんなとき、わたしの膣が夫を締め付けているらしい。夫はそれを楽しんでいるのだ。
 夫が離れた。わたしはティッシュを手にとって、わたしの中から流れ出てくるものを拭う。昨夜もしたのに、白いものが多量に流れ出てきた。
 拭き取った後、枕元に置いてあった鏡を手にした。左の太股にベンツマークの痣が浮かび上がっていた。
 「何をしているんだ?」
 「あなた。ここに痣があるのを知っている? ベンツに付いているみたいな痣が」
 夫は何故か青ざめ、どうしてそれに気がついたと尋ねた。
 「それより、この痣、セックスした後にしか見えるようにならないのね?」
 お風呂で暖めても出ることは言わなかった。
 「だから、どうしてそれを知ったのかと聞いているんだ!」
 語気を強める夫に何かを隠していると感じた。
 「この前来た大きな男よ。彼がわたしのこの特殊な痣のことを知っていたのよ。どうして彼が知っているのか、わたしの方が聞きたいわ。セックスした後にしか出ないこの痣のことを!」
 「そ、それは・・・」
 「彼が言ったことは本当なんじゃないの? わたしが彼の奥さんだってこと」
 「バカな。何を言うんだ。おまえはわたしの妻だ。丞を産んでくれたじゃないか」
 「じゃあ、どうして彼がわたしの痣のことを知ってるのよ」
 「わたしがどこかで漏らしたのかも知れない」
 「こんな恥ずかしいことを?」
 「きっと酔っていたときだ。そうでなかったらそんなことを言うはずがない。当たり前だろう?」
 夫はわたしを抱きしめる。
 「あいつは、おまえがあいつの死んだ妻に似ているから、わたしからおまえを奪いに来たんだ。絶対に騙されるな。おまえは美子だ。わたしの愛する大切な妻だ」
 夫がわたしを愛してくれているようにわたしも夫を愛している。あの大男のことはまったく知らないし、わたしには夫との愛の記憶しかない。あんな痣のことで、この幸せを壊されてはいけないのだ。

 忘れようとしているのに、あの大男のことが何故か脳裏から離れない。夢の中に何度も出てくるようになった。出てくるだけではなく、彼とセックスしている夢を見るのだ。
 (わたし、あの男と浮気したいと思っているのかしら? ああ、もう、いや)
 「美子、純二に来て貰おう。あいつは専門家だから、きっとおまえの悩みを治してくれるよ」
 「そうね。それがいいわね」
 数日後、夫の弟がやってきた。
 「催眠療法をやってみよう。じゃあ、身体の力を抜いて、このコインを見つめて」
 コインが目の前で振れる。振れるコインと夫の弟を見ていると、急にある記憶が戻ってきた。
 「わたし、美子じゃない! わたし、木村小苗だわ」
 夫の弟がわたしに何かの注射をして、わたしは意識を失った。



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