第9章 俺の立てていた計画

 『俺』になった弘子に引導を渡した俺は、マンションへ直行した。マンションでは、弘子の両親が弘子の荷物をバッグなどに詰め込んでいた。
 「弘子、あなたの部屋は前の部屋でいいわね?」
 「もちろん」
 「タンスの中身は全部トランクに詰めたわ。化粧品はどれに入れましょうか?」
 「このバッグにしましょう」
 弘子の母親と一緒になって次から次へと弘子の持ち物を詰めていく。詰め込みが終わったトランクやバッグを弘子の父親が持ち出して車に乗せていった。
 「家具はどうする?」
 「あの人と暮らした痕跡は消したいから、置いていくわ」
 「それがいいわね」
 「あ、パソコンだけは持っていくわ」
 俺は、A4サイズのノートパソコンを手に取った。
 「弘子、あなた、パソコンなんて出来るの?」
 弘子自身はパソコンなどやったことがない。会社の端末を操作できるだけだ。俺の記憶のない俺にとってパソコンは未知の機械だ。けれど、必要になると思った。
 「出来ないけど、今から覚えるの」
 「そう? じゃあ、貰って行きなさい」
 マンションの部屋の中には、弘子がいた痕跡がまったくなくなった。そんな部屋の中を見回すと、ほとんど何もないような状態だ。女に比べて男の持ち物がいかに少ないかを思い知らされた。
 「さあ、帰りましょう? あなたの家に」
 「うん」
 俺は弘子の両親と共にマンションをあとにした。

 弘子の家、弘子の部屋、どちらもすごく懐かしいと思った。弘子の記憶が俺にそんな感動を与えていた。
 弘子は結婚して以来、実家には帰っていない。俺たちの結婚に反対していた弘子の両親がそれを許さなかったからだ。
 運び込まれた荷物を俺は一人でひとつひとつ整理していった。父親は、娘とはいえ女の持ち物には手を出したくない、出せないと言うことで、運び込むだけ運び込むと居間に戻っていた。母親の方は、娘の歓迎準備のために買い出しに出かけていた。
 ドレッサーに化粧品を並べ、洋ダンスに衣服をつり下げたところで母親から夕食の準備が出来たとお呼びが掛かった。
 「わあ、ステーキなの? 久しぶりだわ」
 これまで肉料理と言えば豚肉か鶏肉ばかりで、牛肉は誕生日とか結婚記念日に限られていた。なにしろ、『俺』が給料の4分の1を小遣いとして持っていくから余裕がなかったのだ。
 さらに遊ぶ金ほしさに横領だものな。弘子が愛想を尽かすのも無理はないな。
 俺自身は横領をやったという記憶がないから罪の意識がないわけで、こんな思いにも何の実感も沸かない。
 「そうだろうと思ったのよ。一番いいお肉を買ってきたから、さあ食べて。足りなかったら、お母さんの分もあげるわ」
 「そこまで飢えてないわよ。じゃあ、頂きます!」
 俺は柔らかく甘い肉を口に運んだ。
 「美味しい!!」
 一番いい肉というのは嘘ではないようだ。コーンポタージュスープもうまかった。添えられているサラダも高級レストランでなければと思えるほどの出来だった。久しぶりに味わう母の味に俺は舌鼓を打った。

 ルルルルルーッ、ルルルルルーッ。
 食事が終わった頃、電話が鳴った。母親が電話に出た。
 「もしもし、河島でございます。弘子ですか? いますけど、どなたでしょうか? はあ、そうですか。少々お待ち下さい」
 母親が俺の方を振り向く。
 「弘子、あなたに電話よ」
 「あら? 誰かしら?」
 「吉岡さんって言ってたわ。男の人。同級生だって」
 「ああ、吉岡君。出るわ」
 訝る母親から俺は電話を受け取った。
 「もしもし、代わりました。弘子です。お久しぶり」
 電話の相手、吉岡というのは、弘子の同級生だ。フルネームは、吉岡修二と言う。吉岡は弘子の初恋の男だ。
 俺たちが入れ替わったとき、弘子にとって都合の悪い記憶は俺の人格からは呼び出せないと言われていた。なんでも、他人に秘密を知られたくないという脳の防御反応らしい。ところが、俺は吉岡の記憶が容易に呼び出せる。理由はわからない。
 俺は弘子の中の記憶を辿ってみる。吉岡と出会った中学時代の記憶だ。

 週番をしている谷口志磨子が、教室に飛び込んできてわたしのそばにやってきた。
 「ねえ、弘子。転校生らしいわよ」
 「転校生?」
 「うん。今、職員室に行ったら、校長先生が三浦先生に転校生の書類を渡していたわ」
 「そう」
 わたしは興味なさそうに志磨子の顔を見た。
 「職員室の外に、見たことのないすっごく格好いい男の子がいたから、あの子だわ」
 「志磨子の格好いいは宛にならないからね」
 「また、そんなことを言う! 今度は絶対格好いいって」
 「ま、期待しないで待ってるわ」
 「実物を見たら絶対気にいるから」
 そう言い残して、志磨子は席へと戻っていった。やがて朝礼のチャイムが鳴って担任の三浦先生がやってきた。志磨子が言った通り、背の高い男の子を連れていた。
 なんて可愛い人・・・・。
 格好いいと言うよりも可愛い。それが、吉岡修二に対して抱いたわたしの第一印象だった。わたしは、口を半開きにして吉岡を見ていた。吉岡に一目惚れしていたのだ。
 一目惚れしたのは、わたしだけじゃなかった。甘いマスクで、成績はトップクラス、剣道初段の吉岡は、すぐさま全校女子生徒のアイドルになった。
 「格好いいわね、吉岡君」
 志磨子がうっとりとしながら呟く。
 「そんなにいいかなあ?」
 天の邪鬼のわたしは、いつもそんなふうに答えていた。
 「最高よ。弘子は興味ないの?」
 「ぜんぜん」
 嘘もいいところだった。わたしは、いつも横目で吉岡を見ていた。
 「吉岡君の下駄箱、毎日ラブレターが入ってるんだって」
 志磨子がわたしに告げた。ホントはわたしも吉岡にラブレターを書いていた。だけど、家の机の奥にしまっていた。興味ないと言っていたから出すわけにはいかなかった。
 吉岡は、美人と言われているほとんどすべての女子とデートしていた。弘子も十指に入ると言われていたけれど、吉岡からの誘いはなかった。ちょっと悔しかった。
 成績優秀だったのに、吉岡は弘子と同じ都立高校に進んだ。弘子は、吉岡が自分のことが好きなんじゃないかななんて自惚れていたけれど、吉岡の方はそんな素振りはまったく見せなかった。
 高校でも吉岡はアイドルで、毎日のようにデートを繰り返していた。そんな吉岡に対して、わたしは嫉妬していた。けれど、そのことを顔には決して出さなかった。
 吉岡は医大へ進み、わたしは某有名短大へと進んだ。それからは、吉岡には会っていない。行けなかった同窓会にそれまで来たことのなかった吉岡が来ていたと聞いて、悔しい思いをしたのは、一昨年のことだ。
 吉岡は、わたしの2度目の初恋の人。忘れようとしても忘れられる人ではない。
 「吉岡君、いろいろと噂はあったけど、あなたが本命だったのよ」
 そんな言葉を聞いたのは、飯塚桃子の口からだった。秋葉原で愚痴を聞いて貰ったあとだ。
 「嘘でしょう?」
 「ホントの話よ」
 「だって、吉岡君、わたしのことは無視して、いっつもデートを繰り返していたでしょう?」
 「あなたの気を引くためよ」
 「信じられないわ」
 「吉岡君、弘子が結婚したと聞いて、自棄酒呑んで三日も寝込んだらしいわよ」
 わたしは何だか嬉しくなった。
 「あれ? 弘子も気があったの?」
 「あ、うん。ちょっとだけね」
 「それならそうと言ってあげたらよかったのに」
 「でも、もう手遅れだわ」
 「そうよね。・・・・でもさあ、そんなに愚痴ばっかり言ってるんだったら、別れて吉岡君と再婚したら?」
 「何馬鹿言ってんのよ。愚痴は愚痴。わたしは今は旦那一筋よ」
 初めての男と添い遂げる。古風かもしれないけれど、それがわたしの考え方だった。でも、吉岡のことは一生忘れないわ。
 あの時は心底そう思っていた。

 その吉岡からの電話。俺の胸は高鳴っていた。
 《マンションに掛けたんだけど、何度掛けても出ないから、思い切ってそっちに掛けたんだ》
 吉岡は、弘子の実家の番号は知っているだろう。卒業アルバムに記載があるからだ。しかし、マンションの電話番号は知らないはずだ。弘子の記憶の中には、吉岡に電話番号を教えたという記憶はない。それがどうして?
 懐かしいなと思いながらも(何度も言うが、これは弘子の記憶が俺にそう感じさせる)、俺は首を傾げていた。
 《もしもし、弘子さん? どうかした?》
 「あ、いえ。何でもないです」
 《どうして実家に?》
 「あの、主人と別れたんです」
 喜んでくれるかなと思いながら、俺ははっきりとそう告げた。
 《別れた? あのことが原因で?》
 あのこと? あのこととは何だ? 疑問がもうひとつ。『あのこと』について吉岡と相談していると言うことだ。
 「あ、ええ」
 俺は曖昧に答える。
 《そう。あれから病状が悪化したの?》
 病状? 『俺』に異変でもあったのか? あれから? いつのことなんだ? くそ! どうもわからないな。
 「最初に吉岡君に相談したのはいつだったかしら?」
 こう聞くことで何らかの情報が得られると俺は考えた。
 《御用始めの次の日だったから、7日だったよ》
 1月7日!! と言うことは、弘子と入れ替わった翌日だ。弘子になった俺が、吉岡に電話したと言うことだ。
 俺にはその時の記憶がない。俺は何を意図して吉岡に電話を掛けたのだろうか?
 《もしもし? もしもし?》
 「あ、ごめんなさい。あれから、少し悪化したのよ」
 そう言わなければ、離婚の理由にならないだろうと俺は考えた。
 《ご主人が、どうして弘子さんと入れ替わったなんて言い出したか、ぼくなりに考えてみたんだ》
 その言葉を聞いて、俺は考え込む。『俺』が弘子と入れ替わったと言い出した、つまり夫がおかしくなったようだ、何故でしょう、と吉岡に相談したと言うことだ。これは何を意味するのか?
 《弘子さん、聞いてる?》
 「え、ええ、聞いてます」
 《ぼくが思うに、恐らく現実からの逃避じゃないかと思うんだ》
 「現実からの逃避?」
 《仕事上のトラブルとか、キミとうまくいっていないとか、そんなことから逃げ出そうとする防御反応じゃないかと思うんだ》
 「どちらも当てはまるわ」
 これはもう俺にとっては願ったり叶ったりの説明だ。現状を考えてみたとき、入れ替わりの事実を知らない人間から見れば、そんな説明が一番ピッタリと当てはまるのだ。
 ・・・・もしかしたら、俺はそれを狙っていた?
 『俺』は横領の事実が会社にばれそうになって悩んでいた。そこへ、弘子から人格交換の話が持ち出された。弘子になってしまえば、横領の罪から逃れられる。『俺』は嫌がる振りをして弘子と入れ替わった。
 2週間以上たってしまえば、弘子のままでいられるけれど、弘子がそれは許さないだろう。となると、禁を犯して、元に戻れないようにすることだ。
 大隈老人の説明に寄れば、過度の飲酒やセックスによって元に戻れないなどの障害が起こると言うことだった。
 弘子の監視があるから、飲酒や『俺』とのセックスはしていないはずだ。やったとすれば、ひとりエッチだ。
 可能性はある。
 7日の夜。『俺』は酔って帰っている。寝込んだあとに、俺はシャワーを浴びながらオナニーに耽る。そのために俺が持っていた『俺』としての記憶が飛んでしまった。そうに違いない。さらに、弘子にとって俺に知られては困ることまで俺から呼び出せるようになっている。これも禁止されていた時期にやったひとりエッチの副作用かもしれない。今の俺にとっては都合のいい副作用だ。
 ひとりエッチをしたかどうかは別として、元に戻らないために『俺』が何かをやったことは間違いない。もしかして廃人になっていたかもしれなかったが、俺はその賭に勝ったというわけだろう。
 元に戻ることが出来なくなっているか? それはわからない。けれど、『俺』が警察に拘束されている以上、元に戻ることは不可能だ。このまま2週間が過ぎてしまえば、俺は弘子のままだ。
 2週間が経過する以前に、『俺』になった弘子が元に戻ろうと騒いだときのことを考えて、伏線を張るために同級生であり精神科医である吉岡に相談を持ちかけていたのだ。
 そう考えれば、すべての辻褄が合う。
 そうか。俺は弘子から入れ替わりの相談を受けたときに、すでにずっと弘子として生きる決意をしていたのだ。
 「実は、あの人、会社のお金を横領していたの。それで、昨日警察に逮捕されたわ」
 《横領! そうだったの。なるほど》
 自慢げに頷く吉岡の顔が浮かんだ。
 《ところで弘子さん、これからのキミの予定は?》
 「えっ? 予定って言うと?」
 《ご主人と別れたんだろう? 誰か他にいい人がいるの?》
 「別れたばかりよ。いるわけがないでしょう?」
 《飯塚さんから聞いたんだけど、ぼくのこと、今でも・・・・、あ、いや、こんなこと、今言うことじゃないよね》
 「吉岡さん、わたし、あなたのことが好きよ。ずっと好きだった。あの人とは、成り行きで結婚してしまったけれど、そうでなかったら・・・・」
 《ぼくとつき合ってくれる?》
 期待していた言葉が受話器から聞こえてきた。
 「ええ。喜んで」
 俺はこの時理解した。弘子になった俺が、吉岡に電話したのは、弘子が騒いだときの伏線を張るだけではなく、その後、『俺』とは離婚して吉岡とつき合うつもりだったのだ。
 吉岡は医者だ。叔父の経営する精神科の病院の跡を継ぐことが決まっている。大病院のお医者様の奥さんになるつもりなのだ。
 絶対にそうだ。間違いない。
 計画通りに運びそうだ。
 俺は笑いが止まらなかった。



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