第5章 人格交換の謎

 今の俺には弘子の記憶しかない。その弘子の記憶の中には、俺によって何度も行かされたという記憶がある。けれど、俺としては女としての初めてのセックスだった。男の人格を持つ俺がいけるかどうか心配だったけれど、うまく行くことができた。
 行った瞬間、思い出そうとして思い出せなかった昨年12月初めからの記憶が蘇ってきた。蘇った記憶は俺のものではない。弘子のものだ。俺自身の記憶はまったく戻ってはいない。
 俺は蘇ってきた弘子の記憶を辿ってみた。

 昨年の12月、あの人は、友人や同僚と忘年会と称して毎日のように飲みに出かけていた。時には浮気しているのではないかと疑ってみたけれど、アルコールとタバコの匂い以外には、化粧の残り香やそれを消すために浴びたシャワーのあとなどはまったくなかった。けれど、戻ってくるのはいつも午前様で、あの人とひと言の会話もない日々が続いていた。
 時には遅くなった罪滅ぼしのつもりか、寿司や少し萎れた花束などを持って帰ったけれど、わたしの孤独などに決して気づいてはくれなかった。わたしは毎日泣いて暮らしていたのだ。
 このまま今の状態が続けば、別れようかとも思い始めていた。けれど、わたしはあの人を愛していた。無理矢理犯されて一緒になったけれど、きっかけはともかく、わたしはあの人なしでは生きていけないと思っているのだ。結婚当初に見せた半分の優しさがあの人に戻ってくれればと思っていた。
 わたしの愚痴を聞いてくれるのは、高校時代からの親友・飯塚桃子だけだった。彼女に会ったのは、確か12月7日のことだったと思う。
 女だてらにコンピューターを自作する彼女の指定で、秋葉原にある喫茶店で待ち合わせをした。約束の時間から20分遅れで彼女はやってきた。右手に内蔵型のハードディスクを抱えていた。
 「安かったのよ。120ギガで1万だったわ」
 彼女はそう言ったけれど、それが安いのか高いのかわたしにはわからなかった。
 「何に使うの?」
 「DVDのコピー用よ」
 「DVDがコピー出来るの?」
 「できるわよ。リッピングソフトって言うのがあるのよ」
 と、ちょっとだけ声を落として言った。
 「で、今日は何? まだ、亭主の愚痴?」
 わたしはハアと溜息をつく。
 「やっぱりそうなの? ま、いいわ。聞いてあげる。そのためにわたしを呼んだんでしょう?」
 彼女はホントにいい女だ。まるで母親か姉のようにわたしの愚痴を聞いてくれる。
 「実はね・・・・」
 わたしは、あの人の最近の行動を涙ながらに話した。
 「世の中には、釣れた魚には餌をやらないって言う男が多いわよ」
 「何よ、それ! 女を馬鹿にしていない? わたしはまるで女中じゃないの。夫婦って言うのはそんなものじゃないでしょう?」
 わたしはムッとして叫んだ。
 「そりゃそうかもしれないけど、浮気してるんじゃなかったら、いいんじゃないの?」
 と桃子は簡単に言うのだ。
 「浮気しなけりゃいいって問題じゃないわよ。わたし寂しいのよ」
 「寂しいか・・・・。彼はそうは思っていないんじゃないかな?」
 ハードディスクの入った箱を眺めながら言う。
 「そう、それが問題なのよ!」
 「なかなかわかって貰えないでしょうね」
 「わからせる方法はないかしら?」
 「難しいでしょうね。・・・・この前読んだオンライン小説みたいな機械があるといいんだけどねえ」
 「なに? それ?」
 「作者の名前は忘れちゃったけど、『離婚研究所』って言うタイトルの作品なんだけどね。あなたたちみたいにお互いの立場がわからない夫婦の離婚の危機を乗り越えさせるために、お互いの人格を機械で入れ替えるって言うものなの」
 「お互いの人格を入れ替える?」
 「そう。そうすることによって、旦那は奥さんの、奥さんは旦那の苦労がわかるって言うわけ」
 「そんな機械があればいいけど、そんなものないでしょう?」
 「空想の産物ですものね」
 「はあ・・・・」
 また溜息が出た。

 愚痴を言うだけ言うと、すっきりした気分になった。愚痴を聞かされる飯塚桃子も堪ったものではないだろうけれど、時々こうしてわたしの愚痴を聞いてくれる。ありがたい親友だ。
 喫茶店を出て秋葉原駅へと向かって歩いていった。午後になって人が一段と多くなっていた。店から流れる宣伝の音楽や呼び込みの声も倍には増えた様な気がする。
 「奥さん、奥さん?」
 誰かがわたしを呼んでいる様だが、このあたりに知り合いなどいないから別の人を呼んでいるのだろうと思ってそのまま歩き続けた。
 「奥さん?」
 肩をポンと叩かれた。わたしは驚いて後ろを振り返った。そこにはベレー帽を被った汚い老人が立っていた。薄汚れたジーンズに毛玉の付いたセーター、それによれよれのコートを羽織っている。ホームレスの様だ。わたしは思わず顔を顰めた。老人はそんなわたしに愛想笑いを浮かべる。
 「なに? わたしに何か用?」
 関わり合いにはなりなくなかった。老人が誰か別の人と間違っていると言って立ち去るのを期待した。
 「先ほど喫茶店で聞いてましたよ。ご主人に相手をして貰えなくて寂しいそうですね」
 頭に浮かんだのは、主婦売春という言葉だった。寂しい主婦を勧誘して、主婦売春させるのではないかと訝ったのだ。
 「そんなこと言ってません!」
 わたしはあたりの様子を窺いながら声を潜めて老人に耳打ちした。
 「ほう、そうですか?」
 「ごめんなさい。失礼するわ」
 相手にしない方がいいと思った。わたしは駅に向かって歩き始めた。
 「ご主人と入れ替わって、あなたの苦労をわからせたいっておっしゃってましたね?」
 「そんなこと出来るわけがないでしょう? もう近寄らないでください」
 わたしは老人を睨み付けていった。
 「それが出来るんですよ」
 「はあ?」
 「あなたとご主人の人格を入れ替えることが」
 「ええっ!」
 わたしは立ち止まって振り返った。
 「どうです? やってみませんか?」
 老人がニッコリと笑った。新手の詐欺だと思った。他人の話を盗み聞きして、それをきっかけに何かの商品を売り込むのだろうと。
 「お断りします」
 「お疑いはもっともです。けれど、ホントに出来るのです。それなりに代金はかかりますけどね」
 やはりとわたしは心の中で頷き、唇をキュッと結んで老人に言った。
 「お断りします。わたしに係わらないでください!」
 そう言ったのに、老人は諦めない。執拗に食い下がる。
 「代金は成功報酬と言うことでいいですよ。ダメなら無料。もし、あなたの思った通りになったところで報酬をいただくと言うことで」
 成功報酬という言葉に少し心が動いた。
 「ともかく話だけでも聞いてみませんか? 妙なところへ連れ込んで、契約するまで離さないなんてことはしませんから。どうぞ、あなたの好きなところでお話をしましょう」
 わたしは考える。聞くだけ聞いてみようかと。
 「じゃあ、あそこのマクドナルドで」
 喫茶店だと、密室の様な感じになる。マクドナルドなら、オープンだから、大丈夫だと思った。そこがダメというなら断って帰るつもりだった。
 「マクドナルド。ちょっとわたしの様なものは入りにくいが、まあ、いいでしょう」
 さっさと歩いていくので、わたしは後についていった。

 老人はコーラを頼んで椅子に腰掛けた。わたしも何か頼まないといけないと思い、同じくコーラを頼んだ。
 「わたし、こういうものです」
 身なりからすると、名詞など取り出しそうもなかったから、出された名詞にわたしは少し驚いていた。
 「大隈六兵衛さんですか?」
 「古めかしい名前でしょう? まあ、気に入っていますけれどね」
 話を早く聞きたいのに、大隈という老人は椅子に凭れてタバコを取り出す。わたしが少し焦っているのを察したのか、タバコに火をつけると話し始めた。
 「さきほど、あなたのお相手がお話ししていた『離婚研究所』と言う話は、フィクションじゃなくて、ノンフィクションなんですよ」
 「はあ?」
 「作者の英明さんの経験談でしてね。まあ、名前とか研究所の場所はまったく違いますけどね」
 わたしは恐らく目を丸くして老人の話に耳を傾けていただろう。
 「研究所の名前はホントは『離婚研究所』じゃなくて、『幸せ研究所』なんですよ」
 まんまだなとわたしは思った。
 「実のところを言うと、人格交換の対象は、あなたの様な人たちではなくて、男になりたい女と、女になりたい男でして、そんなふたりをお見合いさせて、気に入ったところで人格を交換するんですよ」
 ふんふんとわたしは頷いた。人格交換を行う最適な組み合わせだと思ったのだ。
 「手術とかホルモンとかを使わないで性別を変えられ、しかも戸籍もちゃんとあるから結婚も出来るというわけで、大好評なわけですよ」
 「ホントなら、そうですよね」
 「だから、実際にできるんだと言ってるでしょう?」
 老人は少し言葉を荒げた。わたしは小さくなる。
 「英明さんがやってきたのは、2年ほど前のことでしてね。夫婦仲がうまく行かなくなったからそれを修復するために一時的な人格交換をやって貰えないかと相談を受けたのですよ。大変うまく行きましてね。見事目的を達成されたというわけです。もちろん、小説の中では、いろいろとトラブルがあったようには書いてあるようですがね」
 「そうなんですか・・・・」
 「やってみます?」
 老人がわたしの顔を覗き込んできた。
 「ホントに報酬はあとでいいんですね?」
 「もちろんいいですよ。どこかの医者みたいにうまく行かなかったのに金を取るほどわたしはワルじゃありませんから」
 自信たっぷりの言葉に、わたしは尋ねた。
 「どうすれば?」
 「ご主人と一緒に研究所に来て頂きます。2、3注意すべき点を確認した後に人格交換器に掛かって頂きます」
 「注意すべき点とはいったい何なんでしょうか?」
 「人格交換後、72時間は身体にストレスを与えないこと。過度の飲酒やセックスなどです」
 「ストレスが掛かるとどうなるんですか?」
 「症状は様々です。元に戻りたいのに元に戻せなくなったり、最悪の場合、人格が崩壊してしまうこともあります」
 「怖いですね」
 「ですから、ストレスには十分注意が必要です」
 ふうとわたしは溜息をついた。人格交換を信じたわけではなかったけれど、老人の話にわたしは完全に引き込まれていた。
 「それから?」
 「人格交換施行前のおよそ一週間の記憶が人格と一緒に交換されます。人格と一緒に記憶部分が交換される理由はよくわかっていませんが、整理されていない記憶はしばらく人格部分と同じ場所に存在するのではないかと考えています。このことは欠点でもあり長所でもあるのです」
 「どうしてでしょうか?」
 「交換前一週間くらいの自分の記憶があった方が入れ替わった人物として生きるのに混乱しなくていいでしょう?」
 「なるほど」
 何故困るかわからなかったけれど、そう答えた。
 「逆に言うと、例えばあなたがご主人になったとして、あなたの一週間分の記憶はありますが、ご主人の一週間分の記憶がないわけです。だから、その一週間に仕事上で重要なことがあったりすると困るわけでして、お互いの記憶を確かめ合う必要があるのです」
 「ああ、なるほど」
 これについては納得出来た。
 「それから?」
 「人格交換後、1週間から2週間の間でしたら、元に戻すことが出来ます」
 「それを過ぎると?」
 「二度と元には戻せません。あなたはご主人のまま、ご主人はあなたのままと言うことになってしまいます」
 「それは困ります」
 「そうならないように、必ずふたりで研究所にお越し下さい。報酬を持ってね」
 老人はニヤリと笑った。
 「具体的にはどこへ行けば?」
 「やります?」
 老人とわたしの立場が入れ替わっていた。胸を張る老人にわたしが懇願していた。
 「ええ、やらしていただきます」
 「ご主人の同意が必要では?」
 「同意させます。同意しなければ、即離婚だと言います」
 「なるほど、それなら大丈夫でしょうな。それでは、いつやることにしましょうか?」
 「人格交換前の一週間分の記憶が交換されるんですね?」
 「そうです」
 「じゃあ、年始めにしましょう。主人は仕事が休みだから、お互いに教え合うことが少なくてすみます」
 「おお、それは気がつかなかった。いいアイデアですね。それでは、1月6日が月曜日ですから、この日にやりましょうか?」
 「1月6日ですね。それで結構です。で、どこに伺えば?」
 「ここです」
 老人は、わたしに地図を渡した。
 「この地図は、他の人には決して見せないようにお願いしますよ。ごく一部の人たちのための施設ですから」
 「わかりました」
 老人は、コーラをぐっと飲み干すと、軽快なステップで去っていった。

 マンションに戻ると、大隈老人の言ったことが荒唐無稽に思えた。
 人格交換なんて、あるはずがないじゃない? ボケた老人にかつがれただけだわ。
 わたしは、大隈老人の話を忘れることにした。
 けれど、その夜以降も殆ど毎日飲んでマンションに遅くに帰ってきたあの人を見て、わたしの悩みを思い知らせてやりたいと思った。
 大隈老人の言ったことは嘘かもしれない。けれど、たとえ嘘であっても、成功報酬ということだから、お金を騙し取られるわけじゃない。なんの損にもならないんだから。
 いつあの人に人格交換の話をするか? それが問題だった。大隈老人との約束は年が明けた1月6日だ。あまり早くから話をすると、あの人の付け焼刃の優しさにわたし自身が迷ってしまう恐れがある。だから、1月6日当日に話をすることにした。離婚届を用意して。

 弘子の中に俺の人格があるところを見ると、俺たちは人格交換を実行に移したことは間違いない。しかし、年末から、あの日目覚めたときまでの記憶が俺の中にはまったくないのだ。およそ1週間分の記憶が俺の中にあると老人が言ったのに・・・・。
 どうなってるんだろう? その間に何が起こったと言うんだろう?



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