第3章 妻の記憶しかない俺

 目覚めると、俺は『俺』の妻・弘子になっていた。一晩で『俺』を女に性転換し、弘子の顔に整形することなど不可能だ。それに、『俺』が存在している以上、その考えは間違っている。
 最初は、『俺』と弘子の人格が入れ替わったと思っていた。けれど、起きてきた『俺』は、『俺』以外の何者でもない様だった。
 入れ替わりではないとすれば、俺の気が狂っているとしか思えない。けれど、そんなことは俺は受け入れられない。
 俺の気が狂っていないと考えるとすれば、やはり入れ替わりだ。『俺』は俺ではなく、弘子が俺を演じているのだ。俺の振りをしているだけなのだ。入れ替わりなど信じられることではないが、俺の精神が病んでいないと言う前提に立つならば、入れ替わりという事態を考えざるを得ないのだ。『俺』が会社から戻ってきたら確かめることにしよう。
 『俺』がやはり『俺』だったらどうしようか? 俺の気が触れているという結論になるのだが・・・・。そんなこと考えたくもない。
 あら? もうこんな時間だわ。
 俺は洗面所にある洗濯機のそばに行った。既に脱水が終わっていた。
 乾燥機付きが欲しいけど。
 『俺』の給料ではまだ買い換えは難しいなと思いながら、俺は洗濯物を籠の中に取り出してベランダへと向かった。
 「いいお天気ですね?」
 声を掛けてきたのは、隣人の後藤民子だ。彼女も洗濯物を干すためにちょうどベランダに出てきていたのだ。
 「ほんと、いいお天気ですね」
 ニッコリと笑いながら俺は返事を戻した。籠から洗濯物をひとつひとつ取り出して干していく。俺と『俺』のものだけだからすぐに終わった。部屋に戻ろうとすると、後藤民子が再び声を掛けてきた。
 「ねえ、ちょっと、奥さん?」
 「はい?」
 「聞きました? 斉藤さんのこと」
 「斉藤さんのこと? いえ、聞いてませんけど。どうかしました?」
 後藤民子は俺に向かって手招きをし、俺が彼女のそばに近寄ると声を落として言った。
 「斉藤さんのご主人、リストラにあって会社を馘首になったらしいわよ」
 「リストラ? 斉藤さんのご主人って、まだ40前でしょう? どうして?」
 「会社が左前なのは確からしいんだけど、実際のところはこれらしいわよ」
 と、後藤民子は左の小指を立てて見せた。意味するところが女性問題と言うことらしい。単なる女性問題くらいでは会社を馘首になることなどあり得ない。
 「社内不倫か何か?」
 「そうなのよ。本社から派遣されてきていた女子社員を懇ろになって、妊娠させてしまったらしいの」
 「へえ」
 「会社を馘首になったら、ローンが払えなくなるでしょう?」
 俺は相槌を打つ。
 「だから、今月いっぱいでこのマンションを引き払うみたいよ」
 「そうなの」
 俺は、斉藤のご主人の顔を思い浮かべる。俺だったら、決して不倫などしたいと思わない様な男だ。まあ、蓼食う虫も好きずきと言うから、あんな男でも不倫する女がいてもおかしくはない。
 「お子さん、まだなんですか?」
 唐突に話題が変わった。女同士の井戸端会議の場合はいつもそうだから、別に気にもならない。気にもならないと考えながら、これは俺の思考ではないなと感じていた。
 「まだなのよ」
 「結婚して2年でしょう? そろそろね」
 「そう思ってるんですけど、なかなかできなくて・・・・」
 「することはしてるの?」
 「後藤さんほどじゃないけど」
 後藤夫妻は結婚5年を超えようとしているのに毎日らしい。俺としては、羨ましい限りだ。
 うん? 羨ましい? この感情は弘子のものだ。そうか、毎日でもして欲しかったのか。それならそれと言ってくれればいいものを。俺にはやれないかもしれないけれど、求められれば少しは頑張ってみるのに。
 イヤ、無理だな。毎日疲れた疲れたと言って、テレビを見るとすぐに寝てしまうから。ホント、後藤さんが羨ましい・・・・。
 何だか、責められている様な気がするのだが、俺は今は弘子なものだから、責められているという実感は沸かない。
 「買い物、行きません? お昼、一緒にしましょう?」
 「いいですね」
 俺は頷く。
 「じゃあ、30分後に玄関で」
 約束をして、部屋の中に戻った。洗濯籠を洗面所に戻すと、俺は部屋の中を掃除機で綺麗にした。弘子は家事が得意だ。これほどできた妻はいないと『俺』からいつも言われている。
 後藤民子との約束の時間まで15分。俺は、外出用に化粧を始めた。俺は、弘子は外出しないときは化粧はしないことが多い。お肌の手入れだけだ。けれど、外出するときは、やはりきちんと化粧をする。
 化粧など俺にできるのかなと思っていたのだけれど、ドレッサーの前に座ると、自然と手が動いた。
 化粧水、ベース、ファンデーション。次々に顔に塗り広げていく。眉毛を描き、アイラインを入れる。アイシャドウ、チークは軽く、ルージュも大人しいものを差した。
 さて、できた。パンスト穿かなきゃ。
 タンスの引き出しから、パンストを取り出す。電線が入っていないか確かめてから、クルクルと丸めて足先から足を通した。スカートを捲り上げてウエストまであげる。
 こんな姿を見たら、あの人、百年の恋も冷めるって言って怒るだろうな。
 俺は、捲り上げたスカートをおろしてパンパンと叩いて整えた。鏡に映して身体を左右に振ってみる。
 うん、いいわ。さあ、出かけましょう。
 俺は、バッグを持ち、サンダルを履いて外に出た。鍵をかけていると、後藤民子が出てきた。後藤民子は、洗濯物を干しているときには既に化粧はしていた。彼女は、寝ているとき以外は一日中化粧をしていると噂で聞いたことがある。イヤ、寝ているときだって化粧しているかもしれない。
 「お化粧していないと、裸でいるみたいで」
 とは彼女の言葉だ。俺はそこまでしようとは思っていない。
 「エレベーターに乗らないの?」
 さっさと階段に向かう後藤民子に俺は声を掛けた。
 「お正月で太っちゃったから、ダイエットのため、少しでも歩こうと思って」
 「そう」
 俺だけエレベーターというわけにもいかないので、俺も彼女のあとに従って階段を降りた。
 真冬だというのに、セーター一枚でも寒くない。きっとババシャツのおかげだ。後藤民子と一緒に、俺は少し早足で歩いてスーパ-へと向かった。
 6枚切りの食パン、スライスチーズ、卵1パック、トマト1袋、キュウリ1袋を籠に入れる。
 「あら? レタス、高いわね」
 俺がつぶやいた言葉に後藤民子が相槌を打った。俺自身は、最近は買い物などしたことがない。野菜の値段が安いか高いかなど知らないのだが、弘子の記憶のためかそのレタスが非常に高いと感じた。
 でも、レタスがないとなあ。
 ちょっと迷ったけれど、結局籠の中にレタスを入れた。さらに、豚肉のスライス、トンカツ用のロース、それに唐揚げ用の鶏肉を買った。
 会計を終えて袋に詰めていると、後藤民子が袋を抱えてやってきた。
 「フレンズにしましょうか?」
 「ええ」
 フレンズというのは、スーパー内にある軽食屋だ。焼きそばをふたつ頼んで後藤民子と向かい合って食べた。
 400円也の焼きそばを食べながら、夫たる『俺』が、昼食代が1000円では食後のコーヒーも飲めないとぼやいているのを思い出した。
 わたしなんか、今日みたいに400円の焼きそばか、飯の残りを使った焼きめし、あるいはインスタントラーメンなのよと少し腹が立った。そんな腹を立てながら、そうか、そうなんだ。俺が悪かったなどとも思っていた。
 焼きそばを食べながら、後藤民子が再び噂話を持ち出そうとしたとき、彼女はハッとした表情になって目を伏せた。振り向いてみると、ベランダでの噂話の主である斉藤の妻が、買い物袋を下げてフレンズの前を通り過ぎていくところだった。
 斉藤の妻は、俺たちに気づいていた様だが、後藤民子が顔を伏せたので、自分たちの噂話をされていると察して、知らぬ顔をして通り過ぎた様だ。
 「気の毒よねえ。亭主の浮気でマンションを手放さなければならなくなるなんて」
 戻ってきて聞かれるのを恐れてか、斉藤の妻が通り過ぎていった方を見ながら小声で話し始めた。
 「そうねえ」
 「お宅は大丈夫なの?」
 「えっ? うち? 浮気? それともリストラ?」
 「どっちもよ」
 「浮気はないでしょう? 賭け事はするけど、女の匂いはしないもの」
 これは弘子の記憶で、俺の物ではない。俺の記憶がないから、弘子に隠れて浮気しているかどうかは俺にはわからない。頭の中だけでは浮気したいと思っているのは確かなようだが。
 「そうなの」
 「その点、後藤さんはいいわね。奥さんにぞっこんで」
 「それがそうでもないのよ。あの人、強いでしょう? 外でやっても家に帰ってやれちゃうのよ」
 これは自慢なのか何だかわからない。
 「会社の方は?」
 「同時多発テロの影響で海外旅行は減ったらしいけど、最近は持ち直し気味だし、国内旅行は意外と多いみたいだわ」
 「大手だから、倒産なんてことはないわよね」
 「ええ、その点は大丈夫だと思うわ」
 『俺』は、弘子の夫は、大手旅行代理店に勤めている。業績は確かに落ちてはいるものの、リストラなどはどこ吹く風だ。
 「あ、今日は水曜日だ。子どもが保育所から帰ってくるわ。帰りましょう」
 後藤民子が立ち上がった。俺も一緒に店を出てマンションへと戻っていった。

 買ってきたものを冷蔵庫に詰めながら、俺の思考や行動が弘子そのものだと言うことに改めて気づいた。
 俺が俺だという意識だけが俺なのか? 俺の記憶は今の俺にはないのだろうか?
 俺は、本棚から俺と弘子のアルバムを取り出した。まず開いたのは、『俺』のものだ。『俺』の父が、満面の笑顔を浮かべて『俺』を抱いている写真が一番最初にある。最初の子どもが男で、よほど嬉しかったと見える父との写真が一番好きだったと『俺』が俺に言ったことを覚えている。けれど、その感慨は俺にはまったくない。まるで他人事だ。
 子どもの頃の写真をめくっていく。幼稚園の時からずっと一緒だった幼なじみの森本修二の顔があった。『俺』と一緒に3人で食事をしたり、飲みに行ったりしたことがあるから、馴染みの顔だけれど、そのほかの同級生はまったく思い出さない。まさに他人のアルバムを見ている様なものなのだ。
 弘子のアルバムを開いてみた。生まれたばかりの妹を抱いている写真に思わず微笑んでいた。
 あいつの方が先に子どもを産んでしまったんだなあ。
 捲って行くどの写真にも俺は感動を押さえきれなかった。一緒に写っている級友たちのことをひとりひとり思い出しては笑ったり泣いたりした。
 俺には、『俺』としての記憶がまったくない。あるのは弘子の記憶だけだ。
 愕然となった。やはり俺は弘子で、気が狂っているのだろうか? ・・・・イヤ、違う! 俺という意識、人格だけが入れ替わったのだ。俺は狂ってはいない!!
 このままでは、ホントに気が狂ってしまいそうだった。俺は『俺』が早く帰ってくるのを待った。

 夫が、『俺』が帰ってくるのを首を長くして待っているのに、いつまで待っても帰ってこない。心を込めて作った夕食もすっかり冷えてしまっていた。
 時計を見上げると午後7時半を回っている。5時まで社員の『俺』は、午後6時過ぎには帰ってくるのだが、週に2、3度はこんなふうに連絡もなしに帰宅が遅い。パチンコか? それとも麻雀か? だとすれば、10時前に帰ってくることはないだろう。そう思いながらも午後8時まで夕食はしないで夫の帰りを待った。
 結局、午後8時を回っても、『俺』は帰ってこなかった。俺は、仕方なく箸を取った。冷え切ったトンカツは堅くてうまくなかった。蓬蓮草の卵とじも作ったばかりの味はなかった。
 早く帰ってきてよ。
 涙が一筋流れ落ちた。弘子は『俺』の帰宅が遅くなるときにはいつもこうしていたのだろうかと反省せずにはいられなかった。
 『俺』が帰ってきたのは、片づけを終え入浴して30分もたった午後10時40分だった。
 「帰ったぞ」
 上機嫌な声が部屋の中に響き渡った。帰ってきた『俺』の姿を見て、ポロリと嬉し涙が流れた。その涙を見られないようにそっと拭った。
 スーツを脱がせたやるとき、タバコの臭いが鼻を突いた。遅く戻ってきた理由など聞かなかった。聞かなくてもわかっている。麻雀かパチンコだからだ。
 「お帰り。今日は勝ったの?」
 皮肉っぽく言ってみた。
 「ああ、役万連発で2万5千円の浮きだ」
 今日は麻雀だったことがわかった。上機嫌なはずだ。付き合いとは言え、かつて麻雀ではほとんど勝ったことがないからだ。
 「お食事は?」
 「食べたさ。食べるに決まってるだろう?」
 さも当然というふうに答えた。腹が立った。
 「遅くなるなら遅くなるって電話くらいしてよ!」
 黙っていようと思ったのに、ついそんな言葉が出た。
 「女房に電話するなんて、どの面下げて言えるんだよ。週に2、3回は遅くなるんだから、それくらいわかるだろうが! 風呂に入る!」
 これ以上言い争いはしたくないと言った様子で、『俺』は脱いだワイシャツを俺に投げつけるとさっさと浴室へ入っていった。
 「どうして遅くなるって電話するのがいけないのよ!」
 俺は、浴室に消える『俺』に向かって叫んでみたけれど、真摯に受け止めてはくれない様子で、浴室に通じるドアが乱暴に閉じられた。
 俺はスーツを床にたたきつけると寝室に行って布団に潜った。あまりに腹が立っていた。『俺』に、『おまえは弘子じゃないのか?』と聞く気力もなくなっていた。
 気力がなくなっていただけじゃない。『俺』があまりに『俺』過ぎた。入れ替わりという考えが揺らいでいたのだ。質問して、『おまえ、気が狂ったんじゃないのか』と言われかねない気がしたのだ。
 俺は気が狂ってなんかいない・・・・。
 俺は布団に潜って震えていた。



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