第2章 不安におののく俺

 俺に起こっている信じられない事態を把握するために、俺はまずベッドの左側を見た。ベッドの寝るとき、俺が右側、弘子が左側に寝る。だから俺の左側には弘子が寝ているはずだ。
 ・・・・いない。
 胸の鼓動が激しくなってきた。
 俺は、ゆっくりと反対側、俺の右側を見た。
 いた!
 いたけれど、それは弘子ではなかった。俺に背中を向けているから顔が見えないけれど、弘子でないのは確かだ。何故なら、髪の毛が短いからだ。短いだけではない。女の髪型ではなかった。その後ろ姿は、俺自身は直接見たことはない。見たことはないけれど、こういう風に見えるはずだ。顔も想像できる。想像された顔かどうか調べるために、その顔を見なければならない。
 けれど、その前にすることがある。俺を、俺自身の身体を調べることだ。俺の横にいる人物が弘子ではないとわかったとき、俺がどうなっているか想像していた。その想像が間違っていることを祈りながら、俺は、腹の上に置いていた両手をゆっくりと上へ滑らせていった。
 嘘だ!!
 俺が想像していたものが手に触れた。俺は慌ててそこから手を離した。自分の身体に触れたものが信じられなかった。俺は恐れおののきながら、もう一度手を胸にやった。やっぱり柔らかい膨らみを触れた。胸からも俺の両手が触れているという信号が戻ってきた。
 これは夢だ! 夢の続きだ!!
 俺は、右手を胸から頬に移動させて思いっきり抓ってみた。痛みが走った。しかし、左手に感じている胸の膨らみの感触は消えない。
 嘘だろう・・・・。
 頬を抓った右手を顔にもっていく。朝には伸びた髭が触れるはずだったが、ツルツルの肌だった。右手をさらに頭部へと移動させた。サラサラの長い髪の毛を触れた。
 自然と左手が下方へと降りていっていた。左手をパジャマの下に滑り込ませる。俺は毛が濃い。だから、臍のあたりまで陰毛が延びている。けれど、臍の下あたりはツルツルだった。しかもその位置に触れるはずのトランクスも手に当たらなかった。
 左手をさらに下方へ進めていくと下着に触れた。トランクスとは違う手触りで、腰にピッタリと張り付いている。その下に左手を滑り込ませる。ようやく陰毛が触れた。
 ない!
 既にわかっていたはずなのに愕然となった。陰毛の中に襞が触れる。その中を分け入ってみるまでもなく、俺が触れているものは女の陰部だとはっきりと自覚できる。しかも、それは俺自身の持ちものなのだ。
 俺はそっと起きあがって、ベッドの横に置いてあるドレッサーを覗いてみた。そこには驚きに満ちた弘子の顔が写っていた。
 俺は右手を顔にもっていった。鏡の中の弘子が左手を顔にもっていく。その動きは俺の動きに連動している。もう信じないわけにはいかない。
 俺は弘子になってしまっていた。
 俺が弘子になっていると言うことは、弘子が俺になっていると言うことだろうか? そうとしか考えられないのだが・・・・。
 俺は振り返って、ベッドの中で寝息を立てている人物に目をやった。後ろ姿からすればそれは男だ。この家の中に俺と弘子以外の人間が入り込む余地はない。弘子の身体がここにいると言うことは、ベッドの上の人物は『俺』だと言うことだ。
 弘子が『俺』になっているのだろうか? それがもっとも考えやすい。しかしと俺は考える。そうでない可能性もあるのだ。つまり、弘子は俺たちとはまったく無関係の別の人間になっていて、別の人間が『俺』になっていることだってあり得るわけだ。
 ベッドの上の『俺』に声を掛けようと、俺はベッドに近寄った。けれど、俺は声を掛けられなかった。なんと声を掛ければいいのかわからなかったのだ。
 「おまえは誰だ?」
 間が抜けている様な気がする。
 「おい、おまえは弘子か?」
 そう尋ねて違ったらどうしよう? それに、今は弘子の俺が、男言葉で尋ねてもいいものだろうか? じゃあ、女言葉を使うか?
 「ねえ、あなた、誰?」
 ますます間が抜けているような気がする。
 困った・・・・。
 そうだ。『俺』が起きるのを待とう。『俺』となった弘子(弘子ではないかもしれないが)の方から声を掛けてくるのを待とう。うん、それしかない。そうすれば、間の抜けた質問などしなくてすむ。
 そう決めたのだが、ベッドの中で待つのが順当なのだろうに、俺がまずしたことはこともあろうに着替えだった。
 着替えは、ベッドの脇に揃えておいてある。ベッドの中に入る前に、弘子はいつも翌日着る服を揃えておく。もちろん弘子自身の服だけではなく、『俺』の服も揃えておいてあるのだ。
 パジャマの上着のボタンを外していく。外しながら、女物の衣服は男物と違って左前なのに気づいた。男が左前の衣服を脱ごうとすると、かなりやりにくいのが相場だが、俺は何の苦もなくボタンを外してパジャマを脱いだ。
 どうなってるんだ? 身体が覚えているってことか? 不思議なことばかりだ。俺が弘子になっていること以上に不思議なことはないのだが・・・・。
 パジャマの下は裸で、弘子の形のいい乳房が俺の目に飛び込んでくる。この角度から弘子の乳房を見た経験はない。
 こんなふうに見えるのか。ほほう。
 感心して見ていたが、いくら暖房が入っているとは言え、裸では寒い。俺は用意されていた衣服の一番上に置いてあるブラジャーを手に取った。
 ストラップ、その名前が頭に浮かんだ、に手を通してカップを乳房にあてて後ろ手にホックを留めた。男の『俺』だったら、こんなふうに両手が後ろへ回らない。女の身体は柔らかいなと妙に感心する。
 少し前屈みになって腋の肉と共に乳房をカップの中に収める。形のよかった乳房がさらに上をつんと向いた格好になった。手が勝手に動いて、ブラジャーの後側とストラップの位置を調整していた。
 それから俺は、薄い布切れを手に取った。ババシャツと呼ばれるものだ。弘子がこんなダサイものを着ているとは思ってもみなかった。けれど、いつだったかこれは暖かいのよと言った弘子の言葉が頭の中を過ぎった。
 頭から被って袖を通し、長い髪の毛を外にすくい出す。薄い生地なのに、ホントに暖かくなった。男物にもこのようなものがあればいいなと思う。
 さらにセーターを着込む。薄明かりの中だから白く見えるが、確かベージュのものだろう。
 パジャマのズボンを脱いだ。穿いているショーツが目に入る。小さな花柄のものだ。股とウエストにレース飾りがある。夢で見たものだ。このショーツは、風呂から上がって穿いたものだと思い出す。その時の状景が夢に出てきたのかもしれない。
 となると、俺は少なくとも昨夜入浴したときには弘子になっていたことになるのだが・・・・。
 どうも思い出せない・・・・。
 黒っぽいスカートに足を通した。スカートを穿くことに何の抵抗もないことにふたたび俺は驚く。ウエストのホックを留めて後側にあるファスナーをあげる。膝小僧が出るくらいの丈のスカートだった。これで寒くはないのかと思ったのだが、寒さは感じなかった。
 ヘアバンドをすると準備完了だ。ドレッサーにまるで女子大生の様な弘子の姿が映っている。いや、女子高生でも通りそうだ。
 スリッパを履いて、『俺』を起こさないようにそろりと寝室を抜け出た。時計は午前6時45分を指していた。『俺』を起こす時刻が迫っていた。
 急がなきゃ。
 俺の身体が勝手に行動を起こす。
 ダイニングキッチンの中には、既に炊飯器から飯の炊ける臭いがたちこめていた。俺はレンジの上に置かれている鍋の蓋を取って中を覗き込んだ。半分ほどの水が張られていて、煮干しが5、6匹泳いでいた。炊飯器を仕掛けたときに一緒に用意していたものだろう。
 この状態で一煮立ちさせると、いい出汁が出ると中学生の頃母に教わったのだ。・・・・弘子の母に。
 弘子の記憶が俺の頭の中にある。
 レンジのスイッチを入れた。そうしてから、冷蔵庫の中から揚げと豆腐、ネギを取り出した。揚げを小さく刻み、沸騰し始めた鍋から煮干しを取り出して、揚げを放り込んだ。
 床下収納を開く。小さな坪がある。ぬか漬けの床だ。『俺』と結婚するときに、弘子の母が持たせてくれたものだ。蓋を取って中からキュウリと大根を取り出す。ぬかをかき混ぜてから蓋をする。食べやすい大きさに切って皿に盛ってテーブルの上に置いておいた。
 味噌汁の火加減を落として、もうひとつのレンジのスイッチを入れてフライパンを載せた。ベーコンを2枚載せて焼き、ひっくり返したところに卵をふたつ落とす。
 あら、イヤだ。主人を起こさなきゃ。
 主人? 俺の思考は完全に弘子のものの様だ。
 俺は、タオルで手を拭くと寝室へと走った。
 なんと言って声を掛けよう?
 迷いながら寝室のドアを開けた。
 「あなた! 起きる時間よ。早く起きて!」
 自分の発したその言葉に俺は驚いてしまった。驚きながらも、ベッドの中の『俺』を観察してみた。ごそごそと起き出してくる。
 『俺』だ。『俺』の身体だ。
 見つめる俺を無視するかのように、何の反応もなしに、『俺』は頭をぼりぼりと掻きながら俺のそばを通り過ぎて洗面所へと歩いて行ってしまった。
 あっ! 焦げちゃう!
 急いで俺はキッチンに戻った。卵は何とか半熟で納まっていた。ふたつに分けて皿に移してテーブルの上に置いた。
 鍋に味噌を溶かし込む。豆腐が入って薄まるから、少し濃い目にする。化学調味料をパラパラと足して味を確かめてみる。
 うん、いいお味。
 豆腐を掌に取り、1センチ角に切って鍋の中に入れる。火力を上げ、豆腐が浮いてきたらできあがりだ。その間にネギを小さく刻んでおいた。
 洗面所から『俺』がやってきた。寝癖が付いていた髪の毛が綺麗に揃えられていた。テーブルに座った俺に、『俺』はお茶の入った湯飲みを差し出した。
 「新聞は?」
 「あっ! ごめんなさい。すぐに取ってくるわ」
 俺は玄関へと走った。椅子に腰掛けている『俺』の方は、リモコンでテレビのスイッチを入れている。
 郵便受けから新聞を取り出してダイニングキッチンに戻って新聞を『俺』に手渡す。何の返事もしないで『俺』は新聞を受け取り目を通し始めた。俺はそんな『俺』をジッと見つめた。
 「どうかしたか? 俺の顔に何か付いているのか?」
 『俺』が俺を見上げて首を傾げながら尋ねてきた。
 「い、いえ。何も」
 俺は飯をよそいながら考える。椅子に座って新聞を読んでいる『俺』は、弘子ではない。もし弘子だったら、目覚めたとたんに飛び上がってくるはずだし、どうしてなのと俺に尋ねるだろう。まして、他人ではあり得ない。他人だったら、洗面所で自分の顔を見ているから自分でないことはわかっているはずだ。それなのに、いつもと変わらぬ様子だ。
 あれは、あれは・・・・、俺だ。俺がふたりいることになる。『俺』と弘子になった俺のふたりだ。
 どうなってるんだ?
 「おい! めし!」
 「は、はい!」
 俺は『俺』にご飯茶碗を渡して、味噌汁を注いで差し出した。『俺』は味噌汁の具を見てにんまりと笑った。その理由は俺にはわかる。俺は、豆腐と揚げの味噌汁が大好きだからだ。毎日でもいいと思っている。ただ、弘子はそれではあんまりだと思っているらしく、いろいろな具の味噌汁を作るのだ。
 『俺』はものも言わずに箸を進めている。ぬか漬けをばりばりと食べる。俺はそんな様子を見ながら、飯を口に運んだ。
 「大丈夫か?」
 そんな『俺』の言葉に俺はエッと声をあげた。
 「何か、いつもと違うぞ」
 いつもと違うのは言われなくてもわかっている。それがどうしてなのかわからないから困っているのだ。
 「そうかしら?」
 そんな返事を戻してから、俺は下を向いたまま食事に専念した。
 「ごっそうさん」
 先に食べ終わった『俺』がテーブルから立ち上がって、着替えのために寝室へと向かった。俺も食べ終わり片づけを始めた。
 「行ってくるぞ」
 そんな言葉に振り向くと、スーツに着替えた『俺』が玄関で靴を履いていた。
 「行ってらっしゃい」
 訳のわからないまま、俺は『俺』を送り出していた。
 「はあ、いったい、どうなってるんだろう?」
 キッチンの椅子に腰掛けて、俺はもう一度現在の状況を把握しようとする。さっぱりわからない。というか考えがまとまらない。
 そうだ。洗濯しなきゃ。
 俺は椅子から立ち上がって、洗面所に向かった。洗面所の一角に洗濯機がある。洗濯機に付属しているホースを浴室に伸ばして浴槽に入れた。残り湯を洗濯に使うためだ。
 洗剤と柔軟剤をセットし、洗濯機のスイッチを入れて全自動のワンタッチボタンを押すと、すぐに洗濯が始まった。
 洗濯など、生まれてこの方やったことがないのに、手順を考えることなく勝手に手が動く。料理にしてもそうだ。わけがわからない。
 さて・・・・。
 俺は、洗面所の鏡を覗き込んだ。鏡に映っているのは、間違いなく弘子の顔だ。今の俺だ。
 長い髪の毛を手ですくってみた。サラサラの髪の毛を手に感じる。引っ張られた頭皮にわずかな痛みもある。
 両手で胸を持ち上げてみた。重いと感じるくらい大きな胸だ。その大きな胸でできた谷間で、パイズリをやって貰ったことは一度や二度ではない。弘子はあまり好きではなかった様だが、『俺』はパイズリが好きでよく要求されていた。
 子どもを産んでいない引き締まったウエスト。確か56しかないはずだ。弘子は安産型の大きなヒップを恥ずかしいと言ったが、『俺』はそれも好きだと言った。
 それら全部が今の俺なのだ。
 会社に出かけていった『俺』は、『俺』以外の何者でもなさそうだ。では、その『俺』だと考えている弘子の姿をした俺はいったい誰なんだろう? それに、弘子は? 弘子という人格はどこへ行ってしまったんだろう?
 もしかすると、弘子が自分のことを俺だと思いこんでいるだけなのだろうか? それが一番妥当な結論だと俺は思う。
 ・・・・すると、俺の精神が病んでいると言うことなのか? 俺は狂ってしまっているのか?
 そんな結論が浮かんだ瞬間、俺の身体ががくがくと震え始めた。立っていられなくなる。俺は膝を突いて顔に手を当てた。涙が溢れ出てきた。
 俺は狂ってなんかいない。俺は・・・・、俺は・・・・、俺だ!



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