第10章 予定通りに進む計画

 吉岡からの電話を受けるまでは、弘子として生きていかなければならないことに、多少の不安と嫌悪感があった。けれど、やむなくではなく、積極的に弘子になろうとしていたと言うことを知った今、晴れ晴れとした気分で弘子として生きていこうと決心した。
 「吉岡君って、あの成績がよかった子でしょう?」
 電話を切ると、母親が寄ってきて尋ねた。
 「そうよ」
 「大学はどこに行ったの?」
 「医学部よ」
 「医学部! じゃあ、お医者さん?」
 「そう。精神科のドクターよ」
 「で、なになに? 弘子に何の用なの?」
 母親は、離婚して今や独身に戻った娘に、同級生の医者からの電話と言うことで興味津々だ。
 「年末から年始に掛けて、あの人、ちょっとおかしかったから、吉岡君に相談していたの」
 「へえ。で、いい男なの?」
 「すっごく、ハンサムよ」
 俺は母親に笑顔を向けた。
 「独身なの?」
 「みたいだね」
 「みたいって?」
 「付き合ってくれって言われたから、結婚してるってことはないでしょう?」
 「付き合ってくれって言われたの?」
 「そう」
 俺はすまして答える。
 「まあ。お父さん、お父さん。大変よ」
 母親は父親のそばに駆け寄る。
 「弘子が同級生のお医者様にお付き合いを申し込まれたんですって」
 「そんな大きな声を出さないでも聞こえているよ。しかし、弘子、いいのか?」
 「何が?」
 「離婚したその日に、他の男性とつきあい始めるなんて不謹慎だろう? 他人から見たら、以前から付き合っていて、あいつの不祥事をきっかけにこれ幸いにと表だって交際し始めたと邪推されかねないぞ」
 「それはそうかもしれないけど、吉岡君はわたしの憧れの人なの。他の人には取られたくないの。だから、体裁なんてどうでもいいわ」
 「ほう。弘子が憧れていた男がいたとは初耳だ」
 「今までずっと心の中に秘めていたから。でも、もうその必要はないわ」
 「今度はうまくいくことを祈ってるよ」
 「うまくいくわ。初めてあったときからお互いに一目惚れだったんですもの」
 「ほう」
 明るい笑顔を見せる俺に、娘の離婚という暗い出来事で少し意気消沈していた父親も明るい笑顔になった。

 入浴をすませた父親と入れ替わりに浴室に行く。着ていたものを全部脱いで鏡に映してみた。『俺』が愛した弘子の顔が写る。
 『俺』はショートカットが好きだった。けれど、それに逆らって弘子は髪の毛を伸ばし続けた。『俺』には知らせていなかったが、弘子が髪の毛を伸ばしているのは、吉岡が髪の長い女性が好きだと噂に聞いたからだ。弘子は『俺』と結婚してからも吉岡のことを思っていた。俺としては悔しい思いが浮かぶ。もちろんその実感はない。
 ブラジャーを外すとDカップの胸が重い。胸から細いウエスト、ヒップに至る線は素晴らしいと思う。この素晴らしい肉体が今は俺のものなのだ。けれども、俺としてはやはり女の身体に違和感は拭いきれない。
 これから一生この身体で暮らすことになるのだから、慣れるしかないな。・・・・5才も若返ったんだし、美人でスタイルもいいんだから、贅沢を言うのは止めような。
 湯船に入ると、重かった胸が軽くなった。お湯の中に浮かぶ乳房。弘子の記憶はそれが当然だと俺に告げる。
 ゆったりとお湯に浸かったあと、身体を洗う。何も触れない股間を洗うとき、乳房で感じたと同じような、それが当たり前だという感じとペニスも陰嚢もないんだという一種驚きのような感情がいり混ざる。
 この2原性は俺が女の身体になれるまではしばらく続くだろう。

 湯上がりに父親と一緒にビールを飲んだ。これは、『俺』と結婚していたときにはなかった光景だ。
 「ああ、おいしい」
 ビールが喉にしみた。心地よい酔いの中で俺は眠りについた。

 やはり6時半に目が覚めた。キッチンで物音がする。母親が起きて朝食の準備をしているようだ。
 娘としてはどうすべきか?
 俺の中にある弘子の記憶は、このまま寝ていていいよと俺に告げていた。俺は再び布団を被って目を閉じた。
 次ぎに目が覚めたのは、午前7時半だった。目が覚めたと言うよりも、母親に起こされたのだった。
 「弘子! いつまで寝ているの? 目が腐るわよ」
 俺はノロノロと起きあがって洗面所へと向かった。父親が既にスーツを着て出かける前の身繕いをしていた。
 「お父さん、おはよう」
 「お、おう。おはよう」
 ちょっと恥ずかしげに答える父親。可愛いなと思った。パジャマを持ち上げている俺の胸にチラリと目をやってから、洗面所を出て行った。
 「行ってらっしゃい、お父さん」
 片手をあげて振り返らずに玄関を出ていった。
 「お父さんったら、嬉しそうな顔をして。わたしが何を言ってもブスッとしているのに。娘の方がいいのかね?」
 母親は、ニコニコとしながらそう言って飯の入った茶碗をテーブルの上に置いた。
 「妬ける?」
 「あんたなんか相手にならないわよ」
 自信ありげに言った。
 「美味しい!」
 母親の作った味噌汁は絶品だった。同じように作っているはずなのにどうして違うのと首を傾げた。

 朝食を作ってもらったので、洗濯と掃除は俺がやった。それがすんで、俺と母親は一緒に買い物に出かけた。
 「あら? 弘子さん、お帰りですか?」
 隣のおばさんがにこやかに声を掛けてくる。離婚して帰ってきたと知ったら、しばらくは井戸端会議の話題になるだろうなと少しだけ気が重くなる。
 「ええ。お久しぶりです」
 「お子さんは、まだ?」
 この言葉を何度聞いたことだろう? イヤになるなと弘子の記憶が俺に伝える。
 「当分は」
 吉岡との関係がどうなるかわからない。当分は妊娠はないだろう。・・・・そうだった。俺は女。子どもを産む機能を持ち合わせている。女である以上、子どもを産まなければならない。
 母親と買い物を楽しむ。ああでもない、こうでもないとひとつ買うのに時間が掛かる。『俺』が一緒に買い物に着いてきたとき、うんざりした顔をしていたけれど、そんな買い物をする身分になってしまうと楽しくて楽しくて。

 昼食に作った鍋焼きうどんを食べ終わった頃、電話が鳴った。
 「弘子、あなたによ。吉岡さん」
 笑顔で受話器を俺に渡す。俺はコホンと咳払いをしてから受話器を受け取った。
 「ハイ、弘子です」
 《吉岡です。昨日はどうも》
 「いえ。お電話頂いて嬉しかったです」
 母親が俺のそばによって受話器から漏れてくる会話に耳を傾けている。俺は、体の向きを変えて聞こえないようにするが、母親は諦めない。
 《5時に仕事が終わるんだけど、会ってくれませんか?》
 「ええ、いいですよ。何時に? どこで?」
 俺は何の迷いもなく即答した。
 《えっと、そうですね。じゃあ、6時にハチ公前で》
 「6時にハチ公前ですね。わかりました」
 受話器を置くと、母親が満面の笑顔を向けてきた。
 「早速デート?」
 「そうみたいね」
 「着ていくものを選んであげるわ」
 母親が俺の腕を引いた。
 「自分で選ぶわ」
 「あなたに選ばしたら、そんな子どもみたいな格好になるでしょう?」
 俺の格好を指摘する。俺はフリルの付いたブラウスにミニのフレアスカート、それにカーディガンを着ていた。確かに俺の年令の女性が着るような格好じゃない。それでも俺はこんな格好が好きだ。
 「悪い?」
 「よくないわよ。大人のお付き合いをするのに」
 手を引かれて俺の部屋に上がった。母親はタンスの扉を開く。
 「これなんてどうかしら?」
 ピンクのスーツを取り出す。独身の頃、同級生の結婚式に着ていったものだ。
 「お水じゃあるまいし」
 「そうね。ちょっと派手ね。じゃあ、これは?」
 黒に近いダークブラウンのワンピースを俺の前に差し出す。
 「地味すぎるわ」
 「じゃあ、これ」
 「うーん、そうねえ」
 母親が俺の前に差し出したのは、幾何学模様の入ったワンピースだ。俺もこれは気に入っていた。
 「それにしなさい。コートはこれね」
 俺はコート受け取る。
 「それから、下着は新しいものに取り替えて行きなさいよ」
 「なに? それ」
 「あなたたち、大人なのよ。どうなるかわからないでしょう?」
 「それはそうだけど、吉岡君とは初めてのデートなのよ。初日からそれはないわ」
 「どうしてそう言い切れるの?」
 「それは・・・・」
 俺は次の言葉に困る。
 「備えあれば憂いなし。そうでしょう?」
 「わかりました。母親の言うことを聞きましょう」
 「そうそう。年長者の言うことは聞くものです。あのとき、あなたが言うことを聞いてくれていれば・・・・」
 母親が悲しそうな顔をした。あの時とは、弘子が『俺』と結婚したときのことだ。母親にだけは、『俺』にレイプされたことを話していた。無理矢理処女を奪った男と結婚することなどないと言われたのだけれど、弘子は、初めての男と結婚したいと言って譲らなかったのだ。
 「そのことはもう言わないで」
 俺はタンスの中から真新しい下着を取りだした。

 ハチ公前は待ち合わせの若い男女で溢れていた。俺と同年代の男女もいたけれど、場違いのような気がして恥ずかしかった。
 キョロキョロしているとポンと肩を叩かれた。
 「弘子さん、お久しぶり」
 振り向いて見上げたところに吉岡の顔があった。大好きな吉岡の顔だ。周りのことも忘れて抱きつきそうになった。
 「よくわたしだとわかったわね」
 「すぐにわかったよ。高校時代とぜんぜん変わらないんだもの」
 「そんなことないわ。お婆ちゃんになってしまったわ」
 「いや、変わらないなんてことはないな。一段と美しくなったよ」
 「まあ・・・・」
 恥ずかしくなって俺は下を向いた。
 「吉岡さんも変わらないのね」
 「そうかな?」
 「眼鏡、したのね」
 吉岡は、今流行の小振りな眼鏡を掛けていた。
 「免許を取るのにね」
 「免許って、運転免許?」
 「そう。免許が取れたら、ドライブにでも行こうか?」
 「ええ。是非」
 「どうしよう? 飯にはちょっと早いけど」
 「早くてもいいわよ」
 「じゃあ、飯を食いに行こう」
 俺は吉岡の腕を取った。

 ホテルでディナーを食べるなんて、『俺』と結婚したての頃数回あっただけで、最近はまったくなかった。
 夜景の見える窓際の席に吉岡と向かい合って座りナイフとフォークを使う。喜びで胸が張り裂けそうだった。
 「髪の毛、伸ばしたんだね」
 高校時代の弘子はショートカットだった。吉岡の好みが長い髪の毛の女だと知るまでは。それを知ってすぐに卒業になったから、吉岡は髪の長い弘子を知らないのだ。
 「吉岡君、髪の長い女性が好きだって聞いたから」
 俺は頬を染める。
 「飯塚さんから、キミのことをもっと早く聞いていれば、遠回りしなくてすんだのに」
 「わたしが見栄を張らないで、吉岡さんのことを好きだって言っていれば」
 沈黙の時間。
 「いいさ。こうして再び巡り会えたんだから」
 「でも、わたし、バツイチになってしまったわ」
 「気にしてないよ。処女じゃなければいけないなんて拘っていないから」
 「ホント? ホントに?」
 「気にしていたら、こうしてキミをデートに誘わないよ」
 そう言って吉岡はニッコリと笑った。俺も笑みを返す。俺としては複雑な気持ちなのだが、弘子の記憶に押し切られた。
 ゆったりとした時間が過ぎていった。そのレストランは、午後9時を回るとバーに変身する。俺たちはそのままその場に残った。俺はカクテルを、吉岡はバーボンを注文した。
 「いける口?」
 「少しなら」
 「少しだけには見えないな」
 「貞操の危機を感じないときには、かなり飲むわ」
 「ぼくが危なくないとでも?」
 「危なくないと言うより、そうなってもいいなって・・・・」
 俺の方から誘ってもいいのだろうかと思いながらも、ついそんな言葉が出てしまった。
 「そんなこと言われると、勃起しちゃうじゃないか」
 俺の耳元で小さな声で言った。
 「吉岡君って、以外と単刀直入なのね」
 「知らなかった?」
 「知らなかった。何人の女を泣かせてきたの?」
 「ちょっと待って」
 吉岡は天井を見上げながら指を折って数え始めた。片手では足りずに両手を使う。
 「そんなに?」
 「嘘、嘘。女性を泣かせたことはないよ」
 「それこそ嘘でしょう? 女は選り取り見取りだったくせに」
 「デートはしたよ。それは知ってる通りだ。だけど、最後までいった子はいないんだ」
 「最後まで行った子がいないって、吉岡君、まさか?」
 「恥ずかしいけど、そのまさかなんだ」
 「童貞?」
 吉岡は大きな体を小さくして頷いた。
 「信じられないわ」
 「でも、ホントなんだ。相手がキミじゃないと思うと、気持ちが萎えちゃって」
 嬉しいような、複雑な気分がした。
 「部屋は取ってあるの?」
 「いいの?」
 「そのつもりで来たんでしょう? いいも悪いもないわ。わたしも準備してきたし」
 そう言って俺は吉岡に笑顔を向けた。



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