第4章 誰のために?

 壮一は絵理子の手を引いて部屋の隅に置いてあるソファーベッドに座らせた。
 「髪の毛を後ろでまとめろよ」
 「わかったわ」
 絵理子はヘアバンドを使って長い髪の毛を後ろでひとつにくくった。
 「仰向けになって」
 言われたとおりに絵理子はソファーベッドの上に仰向けになった。壮一は絵理子のそばに跪いた。
 「絵理子、能面を取ってくれ」
 「取らなきゃ、型が取れないのね」
 「そう言うことだ」
 両手を頭の後ろに回して、絵理子は能面を取った。能面の下から現れた絵理子の顔を見て、壮一は思わず目を伏せた。
 「やっぱり明るいところじゃ、見たくないでしょう?」
 ちょっと悲しげな声で絵理子が言った。
 「・・・・そう言うわけじゃないけどな。絵理子、鼻の穴に呼吸用のチューブを入れるよ」
 「うん」
 壮一は、左右の鼻の穴にチューブを差し込んだ。
 「息苦しくはないか?」
 「大丈夫だよ」
 「そうか。じゃあ、石膏を顔の上に広げるからね。目を瞑って口も閉じて。どこにも力を入れないで自然にしておくんだ。いいね?」
 「わかった」
 壮一は額の部分から少しずつ石膏を載せていった。しばらくすると、絵理子の顔は石膏で覆われていた。
 「動かないように、ジッとしておくんだよ。少しの辛抱だ」
 壮一は、時々石膏の表面を指で触ってその固まり具合を確かめた。

 息を潜めてジッとしている絵理子にとって、1分が1時間、2時間にも感じられた。そんな絵理子にとって永遠とも言えるような長い時間が過ぎていった。
 息苦しくはないとは言ったけれど、熱さと圧迫感で金魚が水面でアプアプするようにやっとの事で息をしていた。
 「もういいだろうな」
 壮一が石膏に手を掛け持ち上げた。顔の表面も一緒に持ち上げられるような感触がして、そのあとフッと顔が軽くなった。絵理子はふうと大きな息を吐いた。
 「顔を洗ってこいよ」
 壮一にそう言われて、絵理子は洗面所へ走った。

 あとに残った壮一は、絵理子の顔の型を取った石膏を壊さないように水平を保つように作られているテーブルの上にそっと置いた。
 「充分固まるまで待とう。その間に・・・・」
 石膏の型を雌型として、シリコン樹脂の一種を流し込んで雄型を作る。そのシリコン樹脂を調合していると、顔を洗って再び能面をつけた絵理子が待っていた。
 「うまくいきそう?」
 「うまくいくさ」
 すでに一度やっていることだ。うまくいかないはずはないのだ。壮一は容器の中のシリコン樹脂を石膏の型の中に気泡が入らないように注意深く流し込んでいった。
 「さあ、あとは固まるのを待つだけだ」
 「どれくらい? どれくらい待てばいいの?」
 「二日くらいだな」
 「二日も!」
 絵理子は驚きの声を上げた。
 「金属だったら早いんだが、炉がないから金属を使えないんだ」
 「そうなの・・・・」
 「もう少しだ。もう少しの辛抱だ」
 「そうね。そうよね」
 「ここまで来たら、完成したも同然だ。前祝いにワインで乾杯しよう」
 壮一は、冷蔵庫の中からアウスレーゼを取りだして栓を抜いた。ワイングラスに琥珀色のワインが注がれる。
 「さあ、乾杯だ」
 グラスを合わせるとカチンと澄んだ音がした。

 翌々日の日曜日の午後、壮一と絵理子は奥の部屋にいた。壮一は、石膏の型の中で固まっているシリコン樹脂を指で押してから、うんうんと頷いた。
 「いいの?」
 「いいようだ」
 壮一は、石膏の雌型を割ってシリコンの雄型を取り出した。ケロイドの線がくっきりと刻まれた半透明のシリコン製のライブマスクが机の上にごろりと転がった。
 「わあ、気持ち悪い」
 自分の顔だというのに、絵理子は顔を背け、能面をしっかりと押さえた。壮一は、ライブマスクをコンピューター横の台の上に載せて固定するとコンピューターを起動させた。コンピューターの向こう側では、人工皮膚の材料となる樹脂がビーカーの中でクルクルと回っていた。コンピューターが立ち上がると、スキャナーを動作させる。モニター上にライブマスクの3D画像が表示された。壮一はビーカーを取り上げ樹脂を噴霧器にセットした。
 「これで準備はオーケーと・・・・」
 すべての点検を終えて、壮一はリターンキーを叩いた。絵理子のライブマスクの上に、人工皮膚となる樹脂が噴霧されていく。その様子をふたりは黙したまましばらく見ていたが、絵理子が口を開いた。
 「あなた。2時間は掛かるんでしょう? 向こうでお茶でも飲みながら待ちましょうよ」
 「あ、ああ。そうだな」
 絵理子に続いて壮一もリビングへ戻っていった。

 紅茶を飲みながら絵理子は何度も時計を見た。
 「絵理子。何度時計を見たって、時間は進まないよ」
 「だって・・・・。もう、時間がたつのがこんなに遅いと思ったことはないわ」
 苛々した口調で絵理子が言う。
 「絵理子は待つのに慣れてるんじゃないのか? ボクがいない4日間の長さに最初の方は気が狂いそうだ、死んでしまいたいって言ってたじゃない」
 「そうなんだけど・・・・。それにしても時間がたたないわね」
 そう言いながら、絵理子は奥の部屋まで行っては戻ってくることを何度も繰り返した。作業開始から2時間が経過したときからは、絵理子は機械のそばにいてジッと進行状態を見ていた。
 やがて壮一も絵理子のそばにやってきて進行状況を一緒になって見つめた。でこぼこだったライブマスクにあの事件以前の絵理子の顔が再現されていった。
 機械が止まったのは、壮一がリターンキーを押してから2時間20分ほどたった頃だった。テストの時より5分ほど時間が掛かったことになる。
 「ここまではうまくいっている。あとは固まるのを待つだけだ」
 「もう2時間、待たないといけないのね」
 壮一は頷く。
 「あと2時間、あと2時間で、わたしの顔が戻ってくるわ」
 落ち着いているように思えた絵理子も次第に興奮してきているようだった。

 夕食を準備する時間になったが、絵理子は手につかなかった。壮一も空腹を感じる余裕はなかった。
 噴霧器が止まって2時間が経過した頃、壮一は人工皮膚の端の方をちょんちょんと触ってみた。
 「どう?」
 「ちょっと早いようだ。もう30分ほど待とう」
 「あと、30分ね」
 絵理子は壮一を押しのけて椅子に座って人工皮膚を見つめた。

 さらに30分が経過した。
 「あなた、もういいんじゃないの?」
 壮一は、チェックする。
 「いいようだな。絵理子、ちょっとそこを退きなさい」
 絵理子を立たせて、壮一は椅子に座り、シリコン樹脂のライブマスクから、人工皮膚をゆっくりと剥がしていった。
 「すぐにつけられるの?」
 「すぐにはつけられないよ。目と鼻、口の穴を開けなきゃならない」
 絵理子は頷く。壮一はカッターを使って両目と口の部分を横に切り開いた。さらに鼻の穴を開いた。
 「よしできたぞ」
 「早くして」
 「ベッドの上に横になって」
 「はい」
 絵理子は仰向けにベッドの上に寝た。
 「能面を取って」
 一刻も元の顔に戻りたかった絵理子は能面を躊躇いもなく取った。
 「型どりをしたときのように目を瞑って口を閉じて」
 言われたとおりに絵理子は目を瞑り唇を閉じた。絵理子は、ヒヤリとした感触を顔に覚えた。
 壮一が、絵理子の顔を指で何度か撫でた。すると、でこぼこ道が舗装されるように、顔の表面が滑らかになっていくのを絵理子は感じた。
 「さあ、絵理子、鏡を見て」
 壮一が絵理子に手鏡を渡した。絵理子は恐る恐る鏡を覗き込む。
 「嘘・・・・」
 鏡には、以前の美しい絵理子の顔が映っていた。絵理子の目から涙が溢れてきた。
 「あなた、ありがとう。ホントにありがとう・・・・」
 「礼を言うのは、もう少し後だ」
 「えっ?」
 「今はまだ置いただけだ。起きあがったら取れてしまう。接着剤でくっつけないとな。一度、剥ぐよ」
 「はい」
 人工皮膚を取り除くと、ケロイドに覆われた絵理子の顔が現れた。壮一は人工皮膚をテーブルの上に置いて、専用の接着剤を人工皮膚の内側に薄く塗っていった。
 「よし。絵理子、もう一度目を瞑って口を閉じて」
 「はい」
 「少しぬるっとするからね」
 壮一はそっと絵理子の顔の上に人工皮膚を置いた。それから、全体を撫でて絵理子の顔の凹凸と人工皮膚の凹凸とがきっちり合うように調節した。さらに、人工皮膚と絵理子の本来の皮膚との境目にビーカーから取った樹脂を刷毛で塗り広げていった。
 「絵理子、接着するまで30分間はジッとしていてくれ。それから、2時間は表情を出さないように気をつけるんだ。そうしないとずれてくっついてしまうからね。そうなったら、ここまでの苦労が水の泡になる。いいね?」
 絵理子はそっと頷いた。

 絵理子がベッドの上に仰向けになっている間に、壮一はキッチンに移動して料理をやり始めた。壮一ができる料理と言えば、カレーくらいなものだが、それも最近は作ったことがない。棚に置かれていた料理の本を見ながら、壮一はカレーを作った。
 絵理子が寝ているベッドにもカレーの臭いが届いてきて、絵理子はちょっとビックリする。
 (あのひとが料理しているの? こんなこと、結婚してから初めてだわ)
 そんなことを思っていると、壮一が絵理子のそばにやってきた。
 「絵理子。もう起きあがっても大丈夫だぞ」
 絵理子は恐る恐るベッドから起きあがった。
 「カレーのルーが足りないみたいなんだ。予備はあるか?」
 喋ってもいいのかわからないものだから絵理子は返事に困っていた。壮一はそれに気づいた。
 「口をあまり動かさなければ、話しても大丈夫だ。カレールーの予備はあるのか?」
 「キッチンの床下収納にあったはずだわ」
 「そうか」
 壮一はばたばたとキッチンへ戻っていった。絵理子は鏡を覗き込んだ。そこにはケロイドも何もない、以前のすっぴんの絵理子の顔が映っていた。
 (信じられない。ホントに元に戻っちゃった・・・・。でもこれじゃ、おかしいわ。お化粧しなければ)
 あの事故以来、化粧しようにも化粧などできなかった。今それができると思うと嬉しくなって、絵理子はドレッサーに向かって鼻歌交じりに化粧を始めた。
 (人工の皮膚とは思えない感触だわ)
 本物の皮膚と変わるところはまったくなかった。その顔に絵理子は化粧を施していった。眉毛はなかったが、人工皮膚に茶色に近い色で眉が描かれていた。眉毛がなくても違和感はない。ただ、ペンシルを使って毛があるように装った。睫は壮一が用意した専用の付け睫をつけた。
 化粧が終わった顔を見て、絵理子は涙を流した。
 (戻ってきた。わたしの顔が戻ってきた・・・・)
 嬉しくて嬉しくて涙があとからあとから沸いてきた。
 「どうしたんだ? 泣いたりして?」
 壮一が後ろに立って鏡の向こうから絵理子の目を覗き込んだ。
 「嬉しくて。あなた、ホントにありがとう」
 「おまえの喜ぶ顔が見れてボクは嬉しいよ」
 「この人工皮膚、剥がれたりしないの?」
 「剥がれないよ。永久におまえはその美しい顔のままだ」
 「嬉しいわ」
 「ところで、飯の炊き方がわからないんだ。何とかしてくれ」
 「あら? ご飯は炊飯器が炊いてくれるでしょう? カレーを作るよりずっと簡単なのよ」
 「それがどうもなあ・・・・」
 「わたしがやるわ。あなたは座って待ってて」
 「慣れないことはするもんじゃないな」
 絵理子は米を研いで炊飯器にセットするとカレーの仕上がり具合を点検した。味見をして、うんと頷いた。
 「うまくできてるか?」
 「完璧だわ。あなたがこんなにうまく料理できるなんて知らなかったわ」
 「そんなに褒められたのは、小学校以来だな」
 絵理子がフフと笑った。

 やがて飯が炊きあがり、絵理子は皿に飯をよそってカレーをかけて壮一の前に差し出した。絵理子も自分の分を皿に盛って壮一の正面に座った。
 こうして一緒に食事をしたのはいつだっただろうかと感慨深げに壮一はカレーを口に運んだ。
 「美味い」
 「自画自賛?」
 「そう。自分で作ったカレーがこんなにうまいとは思わなかった」
 「これからはあなたに作ってもらおうかな?」
 「馬鹿言うなよ。今日が最後さ」
 絵理子のために食事を作ったんじゃない。自分のために作ったのだ。そのマスクと同じだと壮一は思っていた。



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